古代中国の偉人が「天命を知る(知命)」と称した五十路も半ばを過ぎた現在、改めてつくづく思うのは、俺もかつては熱烈で純粋な阪神タイガースのファンだった、ということである。
もちろん今も、タイガースの動向には注目している。いまだもってジャイアンツを応援している希有な男から「阪神タイカープ」などと揶揄されても、新井、金本の見事な打棒に興奮し、最後に藤川の速球を見れば、その夜は熟睡できる。それ以上に甲子園球場への愛着は黙しがたく、最近も半分改装なった聖地を訪れたときは、さっそく甲子園限定のヘルマンドッグを頬張り、甲子園自家醸造生ビールを飲んだ。旨かった。
とはいえ、近年心の底に感じはじめた違和感の塊が、徐々に大きくなってきたことは否定できない。あの胆(はら)の底から燃えるような熱情。全身の毛が逆立つような興奮。かつては感じたそんな感情が、いまは温和しく影を潜めたことを感じないわけにはいかない。
いったい、何故?
その自問に対して自答を得るには、我がタイガース・ファン歴を振り返らなければならない。
俺がタイガースのファンになったのは1965年4月6日、13歳の誕生日のことだった。
関西に生まれ育ちながらも、当時一般の子供たちと同様、ジャイアンツの、とりわけ長嶋茂雄の大ファンだった俺は、中学に入学して教師から「もう洟垂れ小僧やないんやから、しっかりせい」といわれた瞬間、大人になることを決意した。そこでジャイアンツ・ファンであることを辞め、周囲の大人たちと同様、タイガース・ファンになることにした。その日、俺は元服したのである。
しかし、その時期が悪かった。
前年の東京オリンピックの年、タイガースは村山、バッキー両投手の活躍でセ・リーグを制覇。その二年前にも村山、小山両エースの大活躍でペナントを獲得。ジャイアンツ・ファンだった餓鬼を何度も悔しがらせた猛虎だったが、俺がファンになった年からV9ジャイアンツの後塵を拝し続け、「万年2位」と呼ばれるようになった。
さらにドラフト制度の効果が現れ、広島カープ、ヤクルト・スワローズといったかつての弱小球団が次々と優勝するようになると、タイガースはBクラスはおろか最下位に低迷するまでになり、何とその間20年、優勝の美酒から見放され続けたのである。
それだけに1985年、21年ぶりにセ・リーグのペナントを奪還し、初の日本シリーズ制覇という快挙を果たしたときは嬉しかった。本当に嬉しかった。
13歳で元服した餓鬼も、そのときすでに34歳の働き盛り。スポーツライターとしての仕事も波に乗り始めた当時、仕事を理由にタイガースの試合を見まくった。
そのシーズン、初戦の広島球場で大敗を喫したときには、応援に訪れていたタイガース・ファンの落語家の師匠が「ほな、また来年、がんばりまひょ」といったのも束の間、続く甲子園でのジャイアンツ戦で、バース、掛布、岡田がバックスクリーン直撃の3連発! これで波に乗ると猛虎打線が大爆発。6点差、7点差など大差でリードされた試合も次々と逆転。
そのうち弱体投手陣も自信を持ち、エース池田、リリーフエース中西を中心に盤石の強さを発揮。揚げ句は、バースが盗塁をしたり、ライトを守る真弓がゴロを捕って素早く一塁へ投げ、ライトゴロで打者をアウトにするなど、もう、やりたい放題。
すべてのシーンで呵々大笑するような豪快な野球を展開。試合後のインタヴューで吉田監督がナントカの一つ覚えのように繰り返した「チーム一丸」「チャレンジ精神」という言葉も、丸薬や電子レンジをパロッたギャグとしか思えず、タイガース・ファンの誰もが笑顔で『六甲おろし』を歌い続けるなか、日本シリーズで広岡監督率いる西武ライオンズまで撃破したのだった。
そのとき俺の脳裏をよぎったのは、苦節二十年の過去の姿。それは、あまりにも酷い「派閥争い」と「御家騒動」の歴史だった。
引退したキャプテンの牛若丸・吉田を差し置き、エース村山がプレイング・マネジャーに就任したあたりから「騒動」が顕在化。ブルペンから采配を揮った村山は、ベンチを支配した金田正泰コーチに追い払われる身となった。
その金田と蜜月関係を結んでいたはずのエース江夏も、やがて袂を分かたれ、南海ホークスへ電撃トレード。鳴り物入りで入団した東京六大学の大スラッガー田淵も、やがて「騒動」に巻き込まれ、西武ライオンズへ追いやられる。
しかし、21年ぶりのあまりにも美事な優勝のあとでは、それらの過去もけっしておぞましいものとは思えず、よくぞこれだけ個性的な選手が揃っていたな、と懐かしい愛着とともに振り返ることができた。
そういえば当時、江夏、田淵のみならず、ショート藤田平も、遠井の吾郎ちゃんも、センター池田も、なぜかタイガースには下腹の突き出た選手が多く、「阪神部屋」などと呼ばれたこともあった。そんなことも、他球団にはありえない個性としてほほえましく思い出された。
書物から得た知識ではあるが、かつてジャイアンツのエース沢村栄治のライバルとして戦前に大活躍した初代ミスター・タイガース景浦将は、大差のついた試合ではモチベーションが下がる性癖だったのか、外野を守る自分の近くに打球が飛んできてもまったく捕ろうとせず、仁王立ちしたまま動こうともしなかった。当時の監督石本秀一は、「今日も景浦、ボールを追わず、捕らず、動かず、理由不明」と日記に書き残している。
二代目ミスター・タイガースの藤村冨美男の「個性」もまた見事なもので、一打逆転のチャンスで打席に立ったときは、必ずベンチの監督に「ここで打ったら、なんぼ出す?」と訊き、逆転ホームランを放ったあとは、右手を高々と天に突きあげ、「X円! X円!」と、その契約獲得金額を叫びながらダイヤモンドを一周した。さらにホームランを打った瞬間に脚を故障し、片足だけでぴょんぴょんと跳びはねながらダイヤモンドを一周したことまであったという。
俺が青春時代に目にした相撲部屋と見紛う「阪神部屋」の選手たちも、いわばそれらの素晴らしい「個性」の延長。あるいは見事な伝統の継承といえた。
ショートという軽快なフィールディングが求められる守備位置にありながら、下腹の出始めた藤田平は、しかし一塁に守備位置を移して首位打者を獲得した。さらに、それまで一塁を守っていた「名」一塁手の遠井の吾郎ちゃんは、内野手からの送球を腹を突き出した直立不動の姿勢のままキャッチし、眼鏡をかけたインテリジェンス漂う相貌で、一塁ベースへ全力で駆け込む相手打者を嘲笑うかのようにアウトにした。
さらにセンター池田は、ある試合で平凡なフライを追いかけながら「虎刈り」になっていた芝生に足を取られ、見事なまでにスッテンコロリと転んでしまい、逆転タイムリーにしてしまった――という一事だけで、タイガース列伝の歴史に、その名を刻んだ。
もちろん、そのような少々漫画チックな出来事ばかりではない。
延長11回をノーヒットノーランに抑えたエース江夏は、自らのバットでサヨナラ・ホームランまで放ち、「野球は一人でもできる」と言い放った(とされている)。さらにオールスター戦で規定の三イニングを投げ、九人の打者すべてを連続三振に切って取ったときには、その途中最後の打者がファウルフライを打ち上げたとき、キャッチャー田淵に向かって「捕るな!」と叫んだ(といわれている)。
ここで少々注釈を付け加えておくが、じつは、この(江川卓投手も八打者連続で終わった)江夏の大記録は、前年と翌年のオールスター戦にもまたがっており、「9打者連続奪三振」ではなく、「12打者連続奪三振」が正しいのだ。タイガース・ファンなら知っておきたい情報である。
そしてホームラン・アーチストと呼ぶにふさわしい田淵は、当時少々衰えを見せ始めた王貞治がフェンスぎりぎりのホームランを量産したのに対して、打球を甲子園の夜空に向かって花火のように高々と打ち上げ続けた。その白球を、ぽかーんと口を開けて見つめあげたファンのなかからは、「あんなに高う打ち上げんかって、フェンスを越えりゃぁホームランやのに…。無駄なことしよるで」などという声も聞かれたが、誰もがその美しさに陶酔したものだった。
けっして負け惜しみではなく、「万年2位」でも「最下位低迷」でも「派閥争い」でも「御家騒動」でも、甲子園で見せるタイガースの野球だけは、美しかった。ファンは、勝てないタイガースに苛立ちを募らせながらも、そんな美しい野球を見るため甲子園へ足を運び、大漁旗を打ち振り続けたのだった。
1985年の21年ぶりの優勝、そして日本一は、じつは、その美しい野球の集大成というべき出来事であり、それだけに、「日本列島が揺れている」と長嶋茂雄が表現したほどの社会的騒動にまで発展したのだった。甲子園で試合があるたびに、「あっとヒットリ! あっとイッキュウ!」というコールは、西は明石から東は近江の草津までを覆い、『六甲おろし』の歌声は、全国に、いや、パリの凱旋門前、ニューヨークのタイムズスクエアまで、響きわった。
その後タイガースは、静かに、モトの姿に戻った。優勝はおろか、「万年二位」にも程遠く、四年連続最下位などという球団記録まで樹立してしまった。
しかし、俺達むかしからのタイガース・ファンは、その体たらくをさほど悲しんではいなかった。
目を閉じれば、バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発が浮かんだ。「ピンチヒッター川藤」と心の底で囁くだけで、頬が緩んだ。「ピッチャー福間に代わりまして中西」と声には出さず呟けば、あの日、あの時の甲子園の大歓声が甦った。それで十分だった。
しかも、ぼちぼち、それでは十分やないで、と思い始め、世紀も変わった2003年、タイガースは、またまた十八年ぶりという長い潜伏期間を経て、そのマグマを爆発させてくれた。もう十分、という以上に、十二分の満足だった。
さらにその2年後、またまた優勝。もう十二分、という以上に、フランス料理のフルコースを食べたあとに、イタリア料理のニンニクがきいたパスタを出された心境とでもいえばいいのか。日本シリーズでは両年ともに勝てなかったとはいえ、逆にホッとする心持ち。日本シリーズまで勝っていれば、もはや阪神タイガースが阪神タイガースではなくなるのではないかと心配になって心が痛んだに違いない。
もちろん、優勝した年のタイガースの野球は素晴らしく面白かった。
03年に優勝を決めた一戦、ここで一打出れば優勝決定!かも…という大一番の場面で打席に立った赤星は、星野監督に呼ばれて肩を抱かれ、何やら親が子を諭すように耳打ちされたあと、見事なライトオーバーを放った。そのシーンなど、いかにも芝居がかった伝統ともいうべきもので、近松以来の関西文化の発露にも見えた。
05年の優勝のときには、激しく首位を争う中日ドラゴンズとの接戦で、審判の判定に何度も苛ついてマウンドへ歩み寄った岡田監督は、「責任は俺が取る。もう、無茶苦茶やったれ!」と指示(?)した。その結果、選手全員が発憤。見事に優勝につながる天王山の一戦を制したことなど、他球団には(とりわけインテリ落合監督率いるドラゴンズなどには)逆立ちしても絶対にできない、景浦以来のタイガースの伝統ならではの無手勝流の試合運びといえた。
そして首位を独走する2008年の今シーズン。もう、何もいうことはありません。強い。強すぎる。しかも選手の誰もが素晴らしすぎる。ケチのつけようがない。かつてはスタンドのあちらこちらから「責任者、出てこーい!」(後註参照)というヤジが飛ばされたものだったが、赤星や金本や新井や桧山や矢野のような素晴らしい選手に向かって、そのヤジは使えなくなった。また、そのヤジを飛ばしたところで、ファンも若返り、そのギャグの意味を理解して笑う人も少なくなった。
おまけに、甲子園球場まで綺麗になった。昔は、スタンドの出入り口に、デカデカと太い文字で「うどん そば 焼き鳥 カレー めし」と書かれていた看板もなくなった。
俺よりも14歳年下のスポーツライターで、神奈川県出身のタイガース・ファンである金子達仁などは、「もっと勝ってほしい。貯金は50ほしい。巨人との通算対戦成績を、早く逆転してほしい」などと真顔でいう。が、おれは、アルプススタンドの草臥れた板張りの長椅子の上に立って、「責任者出てこーい!」と叫んでいた昔が懐かしい。
関西から首都圏へ出てきて38年。神奈川県に居を構えるようになって25年。仕事の関係で毎月最低でも3〜4回は関西へ戻るが、俺の「青春のタイガース」は、過去の姿のまま固定されている。歳を重ね、子供も成人になり、「阿呆な子供のほうが可愛い」という言葉を身をもって理解するようにもなり、「知命」を過ぎた今日、現在のタイガースを目を細めて見守ることができないのは、あるいは、まだまだ青春を謳歌したいという煩悩にまみれている証拠かもしれない。
いや、そうではないだろう。「知命」という言葉を悟った今、俺は自分が「阪神タイガース的なるもの」を心の底から愛していることに気づいたのだ。なぜなら、今年、地元横浜ベイスターズと阪神タイガースが対戦するときには、心の底でベイスターズに声援を送っている自分に気づいたのだ。
最下位をひた走るベイスターズこそ、かつてのタイガース、その本質を体現しているのではないか。そういうチームを応援することこそ「天命」ではないか。俺は「天命を知った」のだ!
……とは考えてみたものの、それもまた、ちょっと違うんですよねえ。
同じ縦縞のユニフォームでも、ちょっと違う。それに、そこには甲子園が存在しない。「六甲おろし」もない。「責任者出てこーい!」と叫んでも通じる人は周囲にたった一人もいない。笑いが取れない。
そこで、仕方ない。「タイガースがこないに勝ちよったら、もう、かなわんで」「強すぎたら、文句の一つもいえへんのやから…」と、話の合う関西出身の同世代の友人と、酒を酌み交わしながら笑い合う今日この頃なのである。
……と、ここまで書いたところで、この原稿を横から覗き込んだ女房に、叱られてしまった。
「そんな阿呆なこと書いてたらバチが当たりまっせ。阪神が強なりすぎて焼き餅やいてはりまんのかいな。気の小さいお人やで」
「カアチャン、カンニン」(このギャグも若い人には通じんようになったんやろなぁ…。)
♪笑う二人に 笑う二人に
猛虎の夏が来る〜。
追記:そして、その夏に猛虎は13・5ゲーム差を逆転されてしまったのでありました。嗚呼!
(註・文中の「責任者出てこーい!」と「カアチャン、カンニン」という言葉は、かつて関西お笑い界で一世を風靡したボヤキ漫才の大家である故・人生幸朗師匠の定番のギャグです)
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