草野進(くさの・しん)さんが、文芸雑誌『海』にプロ野球評論の連載を開始されたのは、1982年7月号だったというから、もうかれこれ十年近くも前のことになる。が、そのときのショックを、わたしはいまも鮮烈に記憶している。
当時、フリーランスのスポーツライターとして約四年間の経験を積み、ようやくいくつかの雑誌で署名原稿を書き出していたわたしは、東京吉祥寺にある駅前の本屋で、いつものように金を出してまでは買う気になれない同人誌的文芸誌のあれやこれやを、それでも何かおもしろい読み物に巡り合わないものかという思いで、ひたすら趣味的に片っ端から立ち読みしていた。そんなとき、偶然手にした『海』に掲載されていた草野進さんの文章が目にとまり、けっして大袈裟にいうわけではなく、雑誌をもつ手がぶるぶるとふるえだし、周囲が真っ暗になり、足腰の力が抜けてその場にへなへなと座り込んでしまいそうになったのだった。彼女の文章は、身長180センチ体重80キロの男を、そこまで腰抜けにしてしまうほどのパワーに充ち満ちていたのである。
もちろん、わたしがただのプロ野球ファンで、草野進さんと同業のプロ野球評論を手がけている人間(草野進さんの言葉を借りるなら「棒評人」)でなければ、そのような情けない破目に陥らずに済んだことだろう。そして逆に、すばらしい女流プロ野球ライターのデビューに欣喜雀躍し、心からの拍手を贈ることができたに違いない。
しかし、まったく不幸なことに、わたしはこの凄い書き手と同業であり、しかもあくまでも観客としての立場からプロ野球を論じるという視点まで同じであるうえに、敵は、和服の襟足から馥郁(ふくいく)たる色香を漂わせる年増の華道教授だという。ハッキリイッテ、勝チ目ハナイ。オレハ、コレカラ、野球ノ何ヲ、ドノヨウニ書ケバイイノダロウ・・・と、そのときわたしは正直にいって呆然とし、途方に暮れてしまった。
以来、雑誌の編集者やプロ野球と関わりを持たない幸福な(?)ライターたちが、「おい、草野進とかいう奇妙な女の書いているプロ野球評論を読んだか? あれは最高におもしろいぞ」などといっても、「へぇー、そんなひとがいるの? 知らないなあ・・・」と空っとぼけ、陰では毎月の『海』の発売日を首を長くして待ち、彼女の野球論を凌駕できないまでも、なんとか彼女とは異なる野球論の地平を見出すことができないものか、少なくとも彼女の野球論に対抗し得るだけの理論武装をしておかなければ、オレノ存在価値ガナクナッテシマウゾ・・・と、そんな気持ちで、彼女が次々と発表する「革命的」なプロ野球を、むさぼり読んだのだった。
とにかく、プロ野球評論家としての草野進さんのデビューは、あらゆる意味でまさに「革命的」といい得るものだった。なにしろフランス帰りの女流華道教授が、和服の裾を夜風にひらめかせながら、旧後楽園球場のジャンボスタンドに座ってパ・リーグのナイトゲームを見る、というだけでも十分「革命的」であるのに、その彼女が、次のような過激にして根源的な、すなわちラジカルな言辞を、しかも黒木香のような山の手言葉で口にしたのである。
〈球場で試合を見ている自分を女として意識したことなどありませんし、白球の飛び交うグラウンドを遠くから目にしただけで、性にまつわるさまざまな社会的制約から解放される気さえしております。球場というのは不思議な空間で、性別とか階級とか国籍とか、そうしたものがきれいに消滅してしまうアナーキーな場所ではないかしら〉(『どうしたってプロ野球はおもしろい』中央公論社より)
この女流華道教授の言葉に接して腰を抜かさなかったプロ野球評論家は、その鈍感さゆえに評論家たり得ないと断定されてもしかたがないだろう。そして、じっさいのところ、草野進さんの「言葉」=「存在」を無視することによって、ほとんどすべてのプロ野球評論家は、みずから評論家たり得ないことを暴露してしまったのだった。が、そういうわたし自身も、その当時は、彼女の強烈な「革命的」ラジカリズムに圧倒されて、せいぜい「球場で一試合平均0.7回ものレイプ事件が起きているニューヨーク・サウスブロンクスにあるヤンキー・スタジアムに彼女が行けば、いったいどういうことになるだろう・・・」などという妄想を逞しくする以外なかったのである(註・1970年代後半のヤンキー・スタジアムはそのような状態で、2階席から狙撃銃で狙い撃ちされた観客までいたくらいだった)。
そんな個人的事情はいったん横へ措くとして、草野進さんのプロ野球評論家としてのデビューが、いかに「革命的」であったかという点について、もう少し詳しく論じてみたい。
彼女の存在がすぐれて「革命的」たり得たのは、何よりもまず、彼女の女性ならではともいえる言語感覚のすばらしさに根差している。そのことに異論を唱えるひとはいないだろう。たとえば、彼女の書く文章の冒頭に掲げられているアフォリズムともいうべき短文からして、存分に刺激的であり、挑発的であり、過去のプロ野球評論にはいっさい存在しなかったものである。
〈三塁打は今日のプロ野球にあって一つの不条理であるが故にその存在理由があるのだ〉
〈権利としての走塁を阻止する送球の殺意が試合をおもしろくする〉
〈セーブはどこか堕胎を思わせて不愉快である〉
〈爽快なエラーはプロ野球に不可欠の積極的プレーである〉
(以上『世紀末のプロ野球』角川文庫より)
たったこれだけの“アフォリズム”のなかにも、これまでプロ野球を語るうえでは用いられたことのない言葉――不条理。存在理由。権利。殺意。堕胎。――が、それらの言葉の持つ本来の意味をきらきらと輝かせながら、駆使されている。あるいは、「エラー」という野球用語としては否定的な言葉に、「不可欠」という全面肯定的な言葉が重ねられることによって、まったく新しい意味が生み出されている。
つまり草野進さんは、プロ野球に関する彼女自身の思考を言語化する際に(意識的にか無意識的にかはわからないが、女性のことだから子宮感覚的に、すなわちごく自然に)、従来のプロ野球評論にはまるで存在しなかった言葉やレトリックを用い、まったく新しいプロ野球の「世界」を再構築することに成功された、というわけである。
換言すれば、「思考」を「思想」化することに成功されたといってもいいだろう。
もちろん、草野進さんの「思想」に類似した考え方は、彼女のデビューする以前から存在していた。いわゆるスポーツ・ノンフィクション・ライターや、一部のプロ野球評論家たちは、「三塁打のない野球はつまらない」とか「クロスプレイの多い試合はおもしろい」とか、「先発投手は完投を心がけるべきである」とか、「積極的なプレイのうえでのエラーは仕方がない」といったいいまわしを用いていたのだ。
が、このように、新しい言葉やレトリックがまったく用いられていない「思考」は、当然のことながら「思想」たり得ず、単なる「御意見」にとどまる。そこから、なんら新しい「世界」は出現せず、それらの「御意見」は、せいぜいコミッショナーや両リーグ会長や十二球団のオーナー、あるいは監督や選手たちによって、汲みあげられるのを待つ以外にない。その意味で「革命的」たり得ないのである。
一方、草野進さんの文章は、読者を新たなプロ野球の「世界」へ誘う。すなわち、彼女の文章を読み、彼女の再構築した「世界」に接した読者は、その瞬間、周囲のくだらない応援団的喧噪やマスコミのでっちあげるドラマなどから美しく孤立し、まさに「解放区」とも呼ぶべき別世界に身を置くことによって、三塁打の不条理性や、自己の権利として疾駆する走者と彼を殺そうとする野手の殺意や、爽快感あふれるエラーや、そして、そのような事件がごくたまにしか起こり得ない野球という本質的に「退屈な」時空間を、豊かに味わうことが可能となるのである。
その意味で、草野進さんの愛読者が増えるということは、スタジアムにおける「解放区」の領域がわすかながらでも確実に拡がることにつながり、彼女の「プロ野球批評」は、彼女自身が〈「プロ野球批評宣言」は実践的でありたいと思う〉(『プロ野球批評宣言』新潮文庫)と記しているマニフェストのとおり、「実践的」であり、それゆえに「革命的」といえるのである。
さらに、ここで重要なのは、その「解放区」=「別世界」=「草野進の再構築した世界」が、「真のプロ野球の世界」そのものにほかならないということである。
かつてノーマン・メイラーは、フロイド・パターソンとソニー・リストンのプロボクシング世界ヘビー級タイトルマッチを観戦し(あるいはダシにして)、『一分間に一万語』という評論をものにした(新潮社版『ノーマン・メイラー全集第6巻 大統領への白書』所収)。が、メイラーがそこで書いたことは、ヘビー級のボクシングそのものの凄さではなかった。メイラーは、殴り、殴られる男たちと、彼らを取り巻く世界を、ある種奇妙な世界として呈示し、その世界に疑問を投げかけ、それでも疑問が解決されない部分を際立たせることによって、彼の主張せんとする実存主義的世界観を論じたのだ。メイラーが大のボクシング・ファンであることはつとに有名だが、彼の披瀝した世界は、けっしてボクシングそのものではなく、じつは彼の頭のなかで構築されたイデオロギーだったのである。
ここまで書けば、草野進さんの本を一度でも読んだことのある読者なら、彼女のプロ野球評論がメイラーとは正反対の位置にあることを理解していただけることと思う。
つまり、現代哲学あるいは現代思想にかなり造詣が深いとも思われるこのフランス帰りの女流華道教授が、しばしば構造主義的な手法によってベースボールというスポーツの構造を解析し、その本質を呈示してみせることがあっても、その結果示されるものは、「プロ野球の世界」そのものであって、構造主義的な物の見方を彼女がレクチャーしているのではない、ということである。
その証拠に、草野進さんの書かれる文章はつねに「官能的」であり、彼女の文章を読むときにぞくぞくっと背筋を走る快感は、プロ野球のいいゲームやいいプレイを見たときに感じる快感に等しい。これも草野進さんが女性なるがゆえにナチュラルに身につけておられる手法(書き方)というべきか、先に紹介した『プロ野球批評宣言』によって、彼女とちょうど同じ時期にデビューされた蓮實重彦、渡部直己、浦上達之、小川健太郎といった諸氏の文章は、男なるがゆえに「官能的」な度合が薄められ、プロ野球の世界そのものを現出させる以上に論理そのものが先走る、といった部分が感じられなくもない。が、それはともかく、彼ら“草野進一派”と呼び得る“プロ野球批評家軍団”が、その基本的認識あるいは最終的目標を草野進さんの「子宮感覚」に求めていることは確かであり、であるが故に、デビューから十年近くを経た今日まで、「革命的」にして「実践的」な批評活動を持続しておられるといういい方をしても、けっして失礼ではないだろう。
さらに『プロ野球批評宣言』では、柄谷行人、立松和平、赤瀬川隼、ねじめ正一、倉本四郎など、プロ野球に対して一家言お持ちの各氏が、草野進一派と足並みを揃えて「プロ野球批評」を展開されている。ひとつのスポーツに対して、これほど強力かつおもしろい論陣が張られたことは、古今を問わず、この国で唯一無二の出来事といえる。
そのうえ、草野進一派の活動と歩調を合わせるかのように、元プロ野球選手のなかからも、近藤貞雄のようなナチュラルなベースボール感覚にあふれた人物が台頭してきた。そして、不肖ながらわたくし玉木正之も、スポーツライターのひとりとして、草野進一派の用いる言葉よりももう少々簡単な言葉を用いて、彼らと同じ側の立場に立ったプロ野球評論を展開したく思い、陰ながら連帯の挨拶を贈らせていただく。
もっとも、草野進さん自身、このような野球評論の論陣が張られることを、けっして幸福なこととは思われていないかもしれない。なぜなら、かつての長嶋茂雄のようなプレイヤーがいれば、批評などすることなく、ただ溜め息をついて見ていればよかったのだから。
しかし、現在のこの国のプロ野球に長嶋茂雄のようなプレイヤーはいない。さらに、草野進一派がこれだけの論陣を張っても、なおかつ選手の「権利」としての「プレイ」playよりも、「義務」としての「ワーク」workのほうを讃え、スタジアムに生起するアナーキーな一瞬よりも秩序ある勝負を求める風潮が根強いことも確かである。その証拠として、タレント化したテレビの野球解説者たちの言葉をいちいち論い、批判しようとは思わない。が、最近、あるスポーツ雑誌を読んでいて、かなり良質と思われる作家が、日本シリーズの観戦記として次のようなナンセンスな文章を平気で書いていることに驚かされた。
〈外野手は、二塁に入った遊撃手に素早く送球しなければならない。それが野球だ〉
〈センターのクロマティは一歩も動かないだろう。あれじゃいかん〉
草野進さんのプロ野球評論(や、筆者の書く野球論)を少しでも読んだ読者なら、もうすでに、この書き手の犯した決定的な誤りを指摘することできるだろう。そう、この書き手は、自分が観客であるにもかかわらず、見てもまったくつまらない「義務」としての送球を強要しているのだ。そして、クロマティが「一歩も動かない」から「いかん」のではなく、一歩も動かないクロマティの姿(あとからあたふたと走り出すクロマティの姿)が美しくないから「いかん」という、観客としての特権的意識が欠如しているのだ。
かつてプロ野球草創期の大阪タイガースにいた景浦将というスラッガーは、点差が開いて試合がつまらなくなったときに外野の守備位置についていると、打球が飛んできても腕組みしたまま仁王立ちして、まったく追おうともしなかったという。そんな彼の様子を、当時のタイガースの監督だった石本秀一は、〈今日も景浦、打球を追わず、捕らず、走らず。理由不明〉と日記に記している。プロ野球史上最高といわれるパワーの持ち主であり、ボールが粗悪で飛び難い時代に、甲子園球場の外野席中段まで打球を運んだという彼が、外野の守備位置で仁王立ちしたまま「一歩も動かない」というのは、まさに見物である。そんな彼の姿に対して、「外野手は素早く送球しなければならない」から「いかん」などという理屈は、通用しない。そればかりか、そのような理屈は、プロ野球を矮小化する反ベースボール的な態度であり、みずからスポーツを見て感じるときの快感を裏切る偽善者的言辞といってもけっして過言ではないだろう。
が、プロ野球を語るときに、そのような偽善者的原則論(または教育的野球論、あるいは勝敗至上主義の論理)を口にする人物がこの国のプロ野球ファンのなかに数多くいるということも事実である。それに対して、草野進さんは、どこまでも純粋に観客のままでいるのだ。
草野進さんの評論で、わたしがもっともすばらしいと思うのが、じつはこの点で、彼女は徹底して自分の観客としての立場を貫かれている。これは、簡単なことのようでなかなか難しく、元野球選手の解説者はいうにおよばず、新聞記者や雑誌記者やノンフィクション・ライターは取材者という立場で原稿を書き、ファンという肩書きでマスコミに登場する人物たちもすぐに贔屓の球団や選手と一体化し、あちら側の立場で語るケースがほとんどといえる。また、球場に足を運ぶ観客も、応援団という名であちら側に立って喜ぶことの多い昨今、この最悪ともいえるプロ野球状況のなかで、「プロ野球にこの身を捧げるつもり」とおっしゃている草野進さんが、はたしてこれからどのようなプロ野球批評を展開していかれるのか。プロ野球ファンのひとりとして、また草野進さんの文章の愛読者のひとりとして、おおいに注目したいと思う。
(注・草野進さんの本を読んだ某野球選手が、「おれ、こういうインテリの女とイッパツやるのが好きなんだ」といったので、わたしは「バックからでないとできないよ」といっておいた)
註・草野進なる女流華道家が、じつは元東京大学総長の蓮見重彦氏の野球評論家としてのペンネームであったことをここで暴露しても、もはや何も問題はないだろう。じつは、吾輩がその大学の門をくぐったとき、『ゴダール全集』の翻訳者として名を馳せ、フランスから帰国したばかりだった同氏は、助教授として吾輩の属したクラスのフランス語の授業の教鞭をとった。吾輩は一度しか授業に出たことがなく、フランス語を教える人にしてはやけにガタイがええなあと思っただけ(草野球のキャッチャーの名手だったらしい)で、吾輩は大学を横へ抜けた。同氏も、このような「あとがき」を依頼した相手が、じつは元『教え子』だったとは、まだ気づいていないにちがいない。最近、学歴詐称が流行しているらしく(笑)、小生に対しても「ホンマか?」と訊く人がいたので、小生が詐称していない証拠としてこの一文をつけくわえておいた。それでもまだ本人の弁明だけで証拠希薄と疑う人がいるなら、休暇をとって東京まで調べに行きたいと思う(爆)。
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