19世紀のイギリスで誕生し、西欧とアメリカで発展した近代スポーツは、20世紀に入って全世界に広がり、20世紀末には地球規模の身体文化として、あらゆる国々で楽しまれるようになった。そして、オリンピック、ワールドカップ、世界選手権等の国際スポーツ大会は、全人類が共有し、参加できる唯一の「文化の祭典」として、メディアを通して世界中の人々の注目を集めるようになった。
その発展の経緯は文化帝国主義的であり、各民族固有の伝統的身体競技の多くは、マイナーな地位に貶(おとし)められた。また、国際スポーツ大会の肥大化に伴い、IOC(国際オリンピック委員会)をはじめとする国際スポーツ官僚機構の腐敗(開催地の招致運動に伴う裏金の横行等)が表面化したうえ、一流選手のプロ化、ドーピング、メディアの支配等、様々な問題が噴出するようになった。
しかし、それらの諸問題から21世紀のスポーツが沈滞化するとは断じて考えられない。
より人工化(文明化)が進む未来にあって、人間の身体は、最後に残された自然ともいうべき存在である。その身体を用いる(自然と交流する)スポーツは、人間という存在を(無意識のうちに)再認識する手段といえる。そのような価値を根源的に有するうえ、基本的に合理的で平等な規則と組織の成立を必要不可欠とし、さらに平和を前提とするスポーツは、今後ますますその優れた価値が認識されるようになり、さらに多くの人々の注目を集めるようになるだろう。
その結果、未来のスポーツは、世界的には人類という地球規模の共同体意識の創出に寄与し、国際経済をも動かす重要な産業として発展し、国際政治にも多大な影響を及ぼすほどの高い地位を得るようになる。と同時に、個々人の生活のうえでも、健康と幸福な人生に欠かせない文化として、また、地域社会の発展につながる文化産業として、その価値が認められるようになるに違いない。
ところが、それほどの豊かな将来性を有するにもかかわらず、わが国では、まだスポーツの重要性に気づく人々がきわめて少ない。
メディアは連日のようにスポーツ・イベントの結果を報じ、ハイテク技術を備えた巨大スタジアムやドーム球場等の施設も数多く存在し、一見スポーツ・ブームと呼ぶべき活況を呈してはいる。が、わが国のスポーツは、文化としても産業としても軽視され、プロ野球のように見世物興行として一部の団体が利益を得るにとどまるか、あるいは企業利益や公的資金の余剰によって営まれているにすぎない。
市民から一流選手までが気軽にスポーツと取り組めるような(欧米のような)地域クラブはほとんど存在せず、多くのスポーツが体育教育として行われているため、一流選手を育てるための一貫性ある指導に欠けると同時に、多くの市民は学校教育を終えるとスポーツとは無縁の生活を送るようになる、というのが実状である。
1993年に発足したJリーグが、唯一、「百年構想」の名のもとにスポーツによる地域社会の発展を目標として掲げたが、他の多くのスポーツ団体は目先の国際大会に向けての選手強化や、国体等の国内イベントをルーティンとしてこなすだけで長期計画を持たず、政府や文部省、多くの自治体も、わが国における未来のスポーツ文化の青写真を示すようなスポーツ政策は(国民に浸透するような形では)提示されていない。
そのように、未来社会におけるスポーツの価値に気づかず、貧弱な環境と旧態依然たる組織で、W杯や五輪招致といった目先の「騒動」に浮かれ続ける事態が21世紀も継続するなら、プロ・レベルにおいては海外のスポーツ組織(アメリカ大リーグやヨーロッパのサッカー)に市場を支配されることになり(有力選手を奪われ、ファンは海外スポーツのTV中継や来日興行を楽しむことになり)、国際大会での日本人選手の成績も悪化の一途をたどり、市民の生涯スポーツも浸透せず、ちょうど日本映画が衰退してハリウッド映画に席巻されたのと同じような事態を招くだろう。それは、経済的にも政治的にも日本の国際的地位の低下につながるに違いない。
そんな今日において、日本のスポーツ界にまず求められるのは、スポーツという国民共有の無形の文化財を、独占利用している諸団体(主としてメディア)から国民の手に取り戻すことである。 |