高野連(日本高等学校野球連盟)が、来年(つまり2015年の今年のセンバツ後の)春季大会から「タイブレーク方式」を採用するらしい。延長戦十回以降は両チームとも無死満塁から試合を始める。得点を入りやすくし、試合が早く終わるよう導く。それによって大会運営を円滑にし、選手の健康管理、何より投手の「投げすぎ」を少しでも抑えるのが狙いだ。
高校生投手が「投げすぎ」で肩や肘を故障する問題は、小生がスポーツライターとして働き始めた40年前から多くの人が指摘していた。その問題を高野連がようやく取りあげたのは、遅きに失したとはいえ評価すべきかもしれない。が、こんな「解決策」だけでは、問題の本質を見誤るだろう。
そもそも高校野球大会を日本で最も蒸し暑い真夏の関西地方の甲子園球場で開催する必要があるのか? 高校生だから夏休みに開催するというのなら、スポーツを行うのに最も適した北海道でやるべきだろう。
それに現在のスケジュールでは予選の期間が1学期末のテストの時期と重なる学校もある。勉学を無視して野球を優先する日程など論外。予選も夏休みに入って行い、本大会は8月中旬から下旬にかけて道東地方(網走・釧路)で開けばいい。
もちろん移動の交通費が大きくなるが、それは高野連や主催社や後援者が補助金を出せば済む。高校生の健康と勉学を最優先に考えれば、そのくらいの費用を捻出するのは主催社の義務である。
高校野球の試合内容にも疑問が多々ある。
試合で、球児たちは監督のサインを頻繁に伺う。監督も高校生の指導者の一員なら、どうして「自分の頭で考えろ」と指導しないのか? イニング、点差、アウトカウント、走者の出塁状況、相手チームの調子……等々を考慮して、どんな作戦を採るべきか、それを高校生自身が考えてこそ高校野球と言えるはずだ。
だから監督は試合のベンチに入らず、サインは出さず、ネット裏で観戦する。試合のすべてを高校生(と主催者による健康管理)に任せれば、キャプテンを中心に高校球児たちは知恵を出し合い、作戦を考えるだろう。
球児たちが自分たちで考え、スポーツを通して判断力(スポーツ・インテリジェンス)を身に付けてこそ、21世紀の社会が求める人材が育つ。監督のサイン(命令)に従順に従う高度成長社会のモーレツ・サラリーマンのような人材は、現在では過去の遺物でしかない。
しかし高校生に試合のすべてを任せると、なかには目前の勝利を得たい一心からエースを連投させ、エースも球友の期待に応えようと現在以上に肩や肘を酷使する結果を招くことも考えられる。
そのときこそ指導者たる大人たちの出番だ。高校生が無茶をしないようなルールを(たとえば1試合の投球数は50球、連投は禁止……等々)を作ってやればいいのだ。
球数制限をすれば、好投手を数多く揃える「野球名門校」が有利になり、公立高校等が不利になるとの声もある。
が、爽やかな夏の北海道で、高校生たちが自分達で考えた野球をやるのである。そこには高校生たちの稚拙なプレーを覆い隠すギラギラと輝く太陽はない。じっとしていても流れ出る汗もない。現在のような「泥と汗と涙の熱狂」も「名監督の名采配」も消え、国民的な注目度は下がり、野球で名を売る高校も消滅する(が、多くの人が道東へ足を運ぶので、地方の経済活性化には貢献するはずだ)。
現在高野連が高校生投手の「投げすぎ」を「悪」と気づきながら「タイブレーク」などと曖昧な妥協策しか出せないのは、大人たち(監督や主催者やマスコミ)が高校生以上に高校野球を楽しんでいるからだ。大人たちが試合を楽しみ、試合に勝ちたい、大会を盛りあげたい……と願っているから問題の本質――高校生の健康や勉学という一番優先すべき大事なものが見えなくなっているのだ。
夏の全国高校野球は、1915(大正4)年に幕を開け、すぐに全国的な大人気となった。娯楽の少なかった時代に、球児たちの活躍を応援するのは最高の娯楽だった。しかし現在、高校生に娯楽の主役を演じさせるのは時代錯誤でしかない。それに気付くことこそ高校生の健康を守る第一歩のはずだ。 |