「ジャーナリズムが存在せず政府の存在する社会か、政府が存在せずジャーナリズムの存在する社会か。どちらかを選べといわれたら、私は躊躇することなく後者を選択する」
アメリカ歴代大統領のなかに、こういう言葉を残した人物がいる。
まさに至言というべきだろう。
批判勢力(ジャーナリズム)が存在しない権力(政府)ほど危険なものはない。逆に、建設的批判(ジャーナリズム)が存在すれば、最初のうちは権力(政府)が存在しなくても、いずれ必要性に応じて、適切な組織が社会のなかに生み出されるに違いない。健全なジャーナリズムは、何にも増して必要なのものなのである。
ところが、いまなお「御上意識」に毒されている日本の政治家と官僚たちは、ジャーナリズムまでも権力の支配下に置こうとしている。いわゆる「メディア規制法」がそれである。
『個人情報保護法案』『人権擁護法』『青少年有害社会環境対策基本法案』――小泉政権が法制化を強行しようとしている、いわゆる「メディア規制三法案」は、日本のジャーナリズムを破壊しようとするものであり、すなわち日本の民主主義を破壊しようとするものである。
権力(政府)がメディア(ジャーナリズム)を規制しようとするこの法案の不備と危険性については、数多くの人々が、テレビ、新聞、雑誌等のメディアを通じて指摘している。なかでも最悪なのは政府の役人たちの「意識」である。報道被害(過剰な取材)で迷惑を被った(人権を侵害された)人々が過去に存在したのは事実だが、その行き過ぎをチェックするのもまた、ジャーナリズムの責務であり、けっして権力(政府)ではないはずだ。そうでなければ、政治家や役人の不正の追及など不可能になり、ジャーナリズムが政府の広報機関に堕してしまう。
もちろん、そのことも多くのジャーナリストが指摘している。が、誰も指摘していない事実がひとつある。それは「スポーツ・ジャーナリズム」(あるいは「文化ジャーナリズム」)の問題である。
日本のメディアは、プロ野球チームやプロ・サッカーチームを所有したり、高校野球、高校サッカー、高校ラグビー等のスポーツ・イベントを主催あるいは後援することによって、スポーツを支配し、運営する側に立っている。
そのため、日本のスポーツ界は、組織のあり方が批判されたり、どのような組織に改革されるべきか、どのような運営がなされるべきか、といった建設的意見を述べる「場」が存在しない状態に陥っている。すなわち、スポーツ・ジャーナリズムが存在しないのである。
これは日本のスポーツ界だけの問題にとどまらず、日本の社会全体にとっても危機的大問題というべき状況である。
アメリカやヨーロッパのプロ・スポーツが、それぞれ年間20兆円規模のビジネスにまで成長すると同時に、スポーツ・クラブが地域社会の活性化とそこに暮らす人々の身体的精神的健康に寄与し、オリンピックやワールドカップを通じて国民全体に幸福を与えているにもかかわらず、日本のスポーツ界の多くが、いまだに企業スポーツの域を脱却することができず、地域社会や国単位の利益ではない、親会社単位の利益しか追求できない小さなマーケットのままでいる。
そのため経済的な面でも、地域住民レベルや国民レベルでの幸福という面でも、日本は世界第二位のGDPを誇りながら「スポーツ後進国」(スポーツを楽しむ人口が非常に少なく、スポーツが動かすお金も非常に少ない状態が続いている)というほかない状況にある。
そして、そのような企業スポーツの形態を推進し、改革を拒んでいるのが、企業体としてのメディアであり、自らのちっぽけな利益(既得権益=利権)を守るため、ジャーナリズムとしての仕事を放棄し、日本のスポーツ界の改革と発展を阻害し、日本社会と日本国に多大な損害をもたらしているのである。
政府や行政組織にかぎらず、ジャーナリズム(批判勢力=スポーツ・ジャーナリズム)の存在しない組織(プロ野球や高校野球をはじめとするスポーツ組織)ほど危険なものはない。
「メディア規制法」の成立に反対を表明している日本のすべてのメディアは、これをきっかけに、スポーツ・ジャーナリズムのあり方を考え直し、スポーツ(や文化)の運営に直接携わらなくても(事業体としてのメディアではなく)、ジャーナリズムを維持経営できるシステムを構築してほしいものである。
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昨今の「プロ野球再編問題」は、まさにメディアの問題であり、スポーツ・ジャーナリズムの問題といえるのではないでしょうか。 |