ある週刊誌の見出しを見て仰天した。今年のオフシーズンに巨人「軍」は「戦犯」の「大粛正」を行うという。なんとも大袈裟な話である。いや、笑って済ませられない。それらの言葉はスポーツにそぐわない。スポーツへの正しい理解をねじ曲げる言葉である。
一説によると、スポーツとは「権力闘争の非暴力化」(戦いによって支配者を決めていた社会が、話し合い=議会制民主主義に移行したこと)に従って生じた文化であるという。だから古代ギリシアや近代イギリスといった民主主義の発展した地域でスポーツも発展した。
民主主義もスポーツも「戦いのゲーム化」であり、あらゆるスポーツが「敵を殺すこと」を絶対的に否定している。スポーツを行うことは、それだけで「反戦平和」の意思を示すことといえるのである。
にもかかわらず我々日本人は、スポーツを語るときに「戦争」や「権力闘争」に関する用語を用いてしまうことが多い。「ゲームをプレイすること」を「試合を戦う」と表現したり、それを見ることを「観戦」といったり。はたまたチームの監督を長く続けることを「長期政権」と称したり。昨年の9・11テロ以前は、たかがサッカーのゲームを「聖戦」(ジハード)と呼ぶ人物までいた。
「サッカーは戦争である、という人がいるが、それは戦争を知らない人の言葉だ」と語ったレバノンのサッカー選手の言葉を、私は忘れられない(レバノン内戦をレポートしたBBCのドキュメント番組で見た)。
我々日本人にとってスポーツは輸入文化。それだけにスポーツを語る言葉を持ち得ないまま、ゲーム化される以前の戦いの用語を用いてしまうのかもしれない。が、欧米からスポーツが伝播して百二十余年。そろそろスポーツそのものを語るスポーツ用語を意識的に用いるべき時期に来ているのではないだろうか。 |