大相撲は純粋なスポーツではない。もちろん巨体を鍛えあげた男たちが、一定のルールのもとで力と技を競うのだから、格闘技というスポーツの一種とも考えられる。
が、勝負を仕切る行司は、力士と同じ各部屋に所属。勝敗を見極める勝負審判(検査役)も、各部屋所属の親方たちが務めている。これは、プロ野球での球審や塁審を巨人や阪神の職員が務めるようなもので、公平なスポーツのルール(やり方)とは言えない。
また1年6場所(90日)も、繰り返し同じような相手と対戦を繰り返していては、自然に情も移り、相手力士がケガや病気などで苦境に立っていると知れば、手加減を加えることもあるだろう。そんな人情相撲や拵(こしら)え相撲が存在することは、歌舞伎や落語にも描かれている。
つまり大相撲とは、スポーツと興行(見世物)の二つの要素の微妙なバランスの上に成り立っているイベントなのだ。
さらに大相撲には神事の要素もあり、力士たちは巨体で四股(ルビ・しこ)を踏んで大地の邪気を払い、天地長久・五穀豊穣を祈る。
土俵の下には、勝ち栗、榧(かや)の実、昆布、鯣(するめ)、洗米、酒が埋められ、その神聖な土俵の上で行われる横綱の土俵入りは、全国各地の神社にも奉納される。
古代ギリシアのオリンポスの祭典も、主神ゼウスや、各都市国家の守り神であるアテナやポセイドンなどに捧げる神事だった。が、近代オリンピックから神事が消えたように、大相撲を見る観客の気持ちからも神事の要素は薄らぎ、格闘技(スポーツ)の要素が強まってきたようだ。
しかし大相撲は神事・興行・格闘技の三つの要素を併せ持つ日本の素晴らしい伝統文化なのだ。現代でも大銀杏(おおいちょう)を結っている関取たちは神事を司る力人であり、ただ勝負に勝てばいいのではない。強けりゃいいのでもない。
そのことを、外(と)つ国からやって来た力士(ちからびと)たちも理解してほしいものだ。
(註:近代オリンピックや近代スポーツは、オリンポスの神々と離れ、神々に代わって「記録・数字」が、神のような存在になった、とスポーツ社会学者のアレン・グットマンは言っています。まだ神事を残している大相撲は、年間最多勝などという「野暮な記録」を排除して、讃えるならば「年間最優秀取り口十傑」などを選ぶべきでしょうねえ) |