冬季オリンピック北京大会が幕を閉じた。 日本の選手たちはカーリングやスノーボード、スキージャンプや複合、そしてスピードスケートなどで見事なパフォーマンスを見せてくれ、スポーツの素晴らしさを示してくれた。
が、スケートのショートトラックでは中国に有利と思える判定が相次いだり、フィギュアスケートではロシアの15歳の少女にドーピング疑惑が生じ、後味の終わるさも残った(しかも大会終了直後に、五輪休戦協定の提案国の一つであるロシアがウクライナへ軍事侵攻! 嗚呼!)。
そんななかで、メディアはほとんど問題にしなかったが、これこそ最近のオリンピックで最大の元凶(問題点)だと思えたのが、新種目としての「団体種目の増加」だった。
今大会からスキージャンプ混合団体、スノーボードクロス団体、フリースタイルスキーエアリアル混合団体が追加されたが、どれも「チームプレー」でなく「団体競技」だった。
チームプレーは同じチームの選手が同じ競技の場で、互いに協力し合ったり影響を及ぼし合ったりしてプレイする。今大会ではカーリングやパシュートがこれに当たる。
が、団体競技はチーム一人ひとりの残した成績を足し算し、合計成績を争うもので、今大会から増えた3種目や、フィギュアスケートの団体戦がそれに当たる。
リレー競技も、個人で滑る(走る)場合とは状況が違ったり、タッチワーク(バトンワーク)もあるのでチームプレーと言え、夏の五輪ではサッカーやバスケなどの球技はチームプレーで、体操や卓球などの団体戦が団体競技と言える。
団体戦も同じチームの選手が励まし合い、精神的には影響を及ぼし合うだろう。が、個人で競う同じパフォーマンスを、わざわざ団体戦として再度行う必要があるのだろうか?
しかも個人戦では選手の技術の見事さに注目が集まるが、それが団体戦となると、日本が勝った、中国が勝った……という具合に、国の勝敗にが強調されるようになる。つまりスポーツそのものの素晴らしさから「国の争い」へ、注目度が移るのだ。
オリンピック憲章の第1章には、オリンピックは《選手間の競争であり国家間の競争ではない。オリンピック競技大会では各NOC(国内オリンピック委員会)によって選ばれ、IOC(国際オリンピック委員会)が参加を認めた選手たちが一堂に会する》と明記されている。
ということは、今大会に過去のドーピング違反からロシアは国名を名乗れず、ROC(ロシアオリンピック委員会)という名称で参加したが、五輪憲章の理念に則れば、本来はそのほうが正しく、日本はJOC(日本オリンピック委員会)として参加し、そう呼ばれるべきなのだ。
が、じつはIOC自身が各NOCの名称でなく、国名の使用を認め、国旗と国歌の使用も(各NOCが選んだものとして)認め、そして「国別対抗戦」としか思えない団体戦を増やし、さらに東京大会でも北京大会でも「国別メダル獲得数」が、大会組織委員会のホームページに掲載された。
「国家間の競争ではない」はずのオリンピックで、IOC自身が憲章に違反して 「国家間の競争」を煽り、大会を(下品に!)盛りあげているとしか思えないのだ。
閉会式では「オリンピックは世界の分断を克服しました」と語ったバッハ会長の言葉が空しく響き、ウクライナ情勢は悪化し、中国の人権問題は忘れられ……。
札幌冬季五輪の招致を叫ぶ前にオリンピックそのもののあり方を考え直さなければ……。
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