《「伝統」とは「起源」の忘却のことである》
このフッサールの言葉は、まさに至言というべきだろう。
プロ野球の「伝統チーム」読売ジャイアンツは、多くの人々に「日本で最初のプロ野球チーム」だと信じられている。が、本当は、そうではない。昭和九年にジャイアンツの全身である大日本東京野球倶楽部が誕生する以前、宝塚球団や東京芝浦球団など、いくつかのプロ野球組織が生まれていた。同様に、現在行われているオリンピック大会も、世界で最初のオリンピック大会ではなかった。それは当たり前だ、古代ギリシアのオリンピック競技会を真似たのだから、と思う人もいるだろうが、そういう意味ではない。
ピエール・ド・クーベルタン男爵(一八六三〜一九三七)が生まれる以前から「オリンピックの復興」は多くの人々によって唱えられ、「オリンピック」という名前を冠した競技会も、ギリシアをはじめとするヨーロッパ各地で行われていた。一八八〇年代にイギリスへ遊学したクーベルタンも、「ムック・ウェンロック・オリンピック・ソサエティ」という組織が半世紀近く続けてきた競技会を見物し、その「オリンピック活動」の協力者になったという。
ならば、クーベルタンの提唱した「オリンピズム」(近代オリンピック・ムーヴメント)は、二番煎じ、三番煎じのモノマネだったのか、というと、そうともいえない。当時の欧米世界の情勢は、ナポレオン戦争の終結以降、ヨーロッパ各地(各国)を血縁関係によって横断的に支配していた貴族や王族が没落し、新たに「民族」を軸とする「民族国家」(国民国家=ネイション・ステイト)が成立。民族意識(ナショナリズム)の昂揚とともに国境(領土)をめぐる紛争や戦争が繰り返されていた時代だった。
大西洋を挟んだアメリカ合衆国でも、南北戦争の終結後、ヨーロッパとは異なるアメリカ独自の社会と文化を求めるナショナリズムが高まり、クーベルタンの生まれたフランスでも、普仏戦争の敗戦による社会的混乱と国民の精神的痛手から、プロシア(ドイツ)に対して「報復」を唱えるナショナリズムの声が高まっていた。
そんな折りに、報復と戦争の繰り返しではなく、スポーツによる人格形成と国際交流を唱えたクーベルタンは、国際的なスポーツ競技大会の開催によってスポーツ思想の普及による平和を訴えた。そして一八九四年六月、パリのソルボンヌ大学にヨーロッパ一三カ国のスポーツ界の代表を招き、国際オリンピック委員会(IOC)の設置と、国際スポーツ競技大会(近代オリンピック大会)の開催を決定したのだった。
この「国際」(International)という言葉が重要で、この言葉があればこそ、現在は消滅してしまった他のすべてのオリンピック競技大会とは異なり、IOCの近代オリンピック大会だけが存続し続けた、ともいえるように思え。
かつてヨーロッパ各地を支配していたハプスブルクやブルボンやロマノフといった王朝は、王侯貴族の血のつながりや人質の供出によって、「国際的」といえる関係にあった。したがって、その支配を打ち破り、新たに台頭した「民族国家」が、「国内的」になったのは必然ともいえた。それらの「国内志向型国家」が「国際性」を有する必然性を認識し、動き始めるには、第一次世界大戦後の国際連盟の設立まで待たねばならなかった。が、クーベルタンは、その「国際性」を一九世紀末の時点で気づき、実行に移したのだった。
クーベルタンの思想には、女性のスポーツ参加に否定的であったり、労働者差別的なアマチュアリズムを信奉したり、あまりにスポーツ至上主義的で政治に疎い面がある(ベルリン大会を開催したナチスを否定できなかった)等々、当時の社会状況を考慮しても、断じて進歩的とはいえない面があり、「国際性」の認識という点でも、貴族という血統が働いた古い思想といえなくもない。じっさい、IOC委員は各国の代表ではなく、IOCが国や地域に委員を派遣している、という考え方を採ったことや、委員会自身が委員を選ぶという閉ざされた運営を長らく採用していたことも、「貴族的国際性」の現れであり、「特権階級的なクラブ組織」ということができる。が、IOCという名前の通り、設立当時の時代の潮流に逆行するような国際的な組織だったがゆえに今日まで存続し、大きく発展し、国際社会で重要な地位を占めるに至った、ということことも事実である。
これは、おおいに示唆的な歴史といえる。IOCは、今日も、どのような国内組織(国内法)や国際機関(国連や国際法)からも独立した「国際的任意団体」である。つまり、法人ではない。早い話が、スポーツの好きな人々が国境を越えて集まっただけの団体にすぎない。その団体が世界の国々や人々から支持され、支援を受け、援助を受け、活動しているのだ。そのため、税務上の処理や運営方法に対して首を傾げる人がいることも事実ではある(本部のあるローザンヌ市で、巨額の放映権料「収入」や入場料「収入」を得ているIOCが、固定資産税等を免除されているのはおかしい、という声も聞いた)。
オリンピック開催地の決定をめぐるIOC委員に対する「裏金」疑惑も、「法人」ではなく「任意団体」であるかぎり、法的規制は不可能で、問われるのは組織と委員個人の「倫理」であり、自浄能力ということになる(委員の属する国において脱税疑惑が問われることもあるだろうが、その徹底的な調査は国単位では不可能だろう)。そこで、IOCは国際的な批判のなかで、倫理委員会を設け、有識者による監査委員会の設置、委員の選考方法の改革、定年制の導入、現役選手委員の選定等、新たな改革に手をつけた。それも、「任意団体」である(外部の法的規制を受けない)がゆえに、「倫理」を軸にした自浄作業として行われた。その点を組織的欠陥と考え、国連の国際機関に改組し、各国代表の監視下に置く国際組織にすべし、と主張する声もある。が、わたしは、そうは思わない。
どんな組織や制度にも、完璧なものなどありえない。かつてはアナクロニスティックな考えともいえた「国際性」も、いまでは有効な威力を発揮している。「国際性」を訴えた近代オリンピック・ムーヴメントが発展していなかったら、いまごろアメリカ・ナショナリズム・スポーツが、現状以上にさらに世界を席巻していたかもしれない(陸上競技や水泳競技も、MLBやNBAやNFLやNHLと同様、アメリカ大会やアメリカ・リーグで勝利しないと「世界一」とは認知されない状態になっていたかもしれない)。IOCが国連の一組織に組み入れられても、各国の政治的綱引きの道具になるだけだろう。IOCが現在世界に打ち出すべきメッセージは「倫理」である。利害の対立のなかで倫理が顧みられなかった国際経済の世界でも、ノーベル経済学賞を受賞したインドの経済学者シンが唱えたように。「倫理」が再認識されるようになった。そんな現在の国際社会で、IOCは、未来の倫理的規範を提示できる最も好位置にいる、といえるのではないか。世の中は聖人君子ばかりではない、とりわけ支配層の人々は・・・と誰もが思っている世界に、任意団体であるIOCは、スポーツの公平性、スポーツの平等性、スポーツの公明性を打ち出すなかで、新たな倫理的価値観を提示できるのではないか。
巨額のカネを動かす公明正大な組織。そんな不可能に思えることも、「真のアマチュアリズム」と「真のプロフェッショナリズム」を同時に兼ね備えた「真のスポーツマン」には可能に思える・・・と書くのは、スポーツ至上主義が過ぎるだろうか? |