スポーツの話題に事欠くことのない今日、メディアはスポーツをネタにして、じつに多くの「物語」を紡ぎ出している。
が、その中味はきわめて単純。「オヤジ趣味」と「日本人のイメージ」でしかない。
女性のアスリートが活躍すれば、アスリートであること以上に女性であることが注目され、「支える男」(夫の協力)や「子供への授乳」が物語の中心になる。
海外(メジャーリーグ)で活躍する日本人選手が出現すれば、食事や言葉の「壁」に関する苦労話が語られる。そうして執拗なまでに「日本人であること」がイメージとして押しつけられる。
このようなステレオタイプは、日本に対してだけでない。アフリカ人に対しては「高い身体能力」と表現し、同じようなプレイをしたドイツ人に対しては「ゲルマン魂」という表現で、使い分けが存在する。
そうしてスポーツニュースに日々接する我々は無意識のうちに「何か」を「刷り込まれる」。
「何か」とは……無意識のセクハラであり、人種差別であり、外国に対する違和感であり、日本人は身体能力に劣るが組織力では優るという先入観であり……。詰まるところ、まったく根拠のない「日本人像」「世界像」ということになる。
著者の指摘はすべて正しく、読んでいて痛快でもあり、本書が多くの人に読まれる結果、レベルの低い日本のスポーツ報道が少しは改められることを望みたい。が、せっかくここまで分析するのであれば、なぜこうまでレベルの低い報道がまかり通ってしまうのか、というところまで足を踏み入れてほしかった。
団体行動とチームプレイの区別すら判然と認識しないまま、スポーツの歴史すら学ぶ機会のないまま、スポーツ報道に携わることのできる日本のスポーツジャーナリズムは、それらを認識(あるいは体感)したうえでスポーツを遊んでいるヨーロッパの報道とは、明らかに異なるはずである。
著者には、この快著に続く日本のスポーツジャーナリズムを抉る第2弾を是非とも期待したい。 |