パリ五輪の開幕が迫り、メディアの報道が喧(かまびす)しい。が、それは世界のスポーツ界の実相とは、懸け離れた空騒ぎのようにも見える。
山本敦久・編『アスリートが変えるスポーツと身体の未来』(岩波書店・2022年)では現在のスポーツが抱える諸問題に直面した9人のアスリートを取りあげ、9人のスポーツ関係学者が問題の本質を分析、浮き彫りにしている。
幼時から女性として育ってきたのに、速すぎる記録を出したために女性の陸上中距離競技への出場を拒否されたキャスター・セメンヤ。
自らゲイ(レズビアン)をカミングアウトし、LGBTQ運動の活動家としてスポーツ界の男女差別を告発し続けたFIFA(世界サッカー協会)最優秀女子選手(19年)のミーガン・ラピノー。
アメリカ社会の黒人差別に抗議し、BLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動の旗手として「膝付き抗議」を世界に広めたアメフトのスター選手コリン・キャパニック。
さらに全米テニスの会場を黒人差別反対の場に変えた大坂なおみ。義足選手(障碍者)のオリンピック出場を主張し続けた走り幅跳びのマルクス・レーム……等々「物言うアスリートたち」はスポーツ界だけでなく、スポーツを通じた社会変革を目指しているのだ。
「ファンの感動ポルノのなかのアスリートと、リアルは違う」との発言は、マラソンの大迫傑(すぐる)選手がコロナ禍で東京五輪の開催が危ぶまれたとき、他にもマラソン大会は多く、「東京オリンピックというストーリーづくりが目立ち過ぎ」と批判したときの言葉だ。
「ポルノ」のように過激で、「ポルノ」のように次々と忘れ去られる「感動」を量産し続けたメディアに対して、メディア自身が行うべき(だが行わない)「総括」を行ったのが、伊藤守・編著『東京オリンピックはどう観られたか』(ミネルヴァ書房・24年)。
東京五輪に対するSNSの多種多様な反応に対する分析も貴重だが、テレビが《ワイドショーに見られる「娯楽の報道化」とニュースに見られる「報道の娯楽化」》のなかで、《批判的機能》と《社会統合機能》という重要な二つの『機能の喪失』を起こしているとの指摘は、オリンピック報道に留(とど)まらないメディアと日本社会の危機を感じさせる。
そもそも21年に開催された2度目の東京五輪の最重要課題は、戦前の軍事教練の残滓が漂い、命令されて身体を鍛える「体育」が中心だった64年東京五輪の「アマチュア体育観」を一掃し、自主的・自発的に楽しみ、プロスポーツ産業の拡大をも含む「体育からスポーツへの転換」のはずだった。
が、コロナ禍とメディアの「感動ポルノ」で、その企図は雲散霧消。「体育」を「スポーツ」へ、文字の書き換えだけに終わった観がある。
そんな中途半端な「スポーツへの転換」に対して、為末大『ぼくたちには「体育」がこう見える』(大修館書店・24年)は、見事な「体育の逆襲」を果たしている。
走るのは得意だが、ボールゲームはまったく苦手だった著者が、「からだ」を扱う唯一の教育である「体育」には、もっと多様で豊かな「やり方」があるはずとの問題点から出発。美学者・教育学者・遺伝学者・クリエイティブディレクター・美術教師・数学者・システム工学研究者などを訪ね歩いた結果を対談に纏めたのが本書。
その結果は副題のとおり『「体育」は学びの宝庫』だと再発見。 《「できる/できない」の優劣をつけるのとは違う技術を高める(略)体育もある》《「やりたい」だけでなく「やりたくない」というのも重要な欲求》で《それは最大限尊重》したうえで《「これをやりたい」「自分はこれを強く求めている」という感覚に応えることが大事》《心やからだという不便さの中に面白みがある》……
それぞれの発言者は略したが、「からだ」を軸に考え、体育教育が豊かに機能すれば、居心地の良い教育環境も出現し、暮らしやすい社会にもなる、と本書は語る。
『世界思想51号特集スポーツ』(世界思想社・24年)にも「スポーツと身体」の鋭い考えが記されている。 《身体というのは(略)唯一の物理的存在であり、リアルなのです。いくらVR(ヴァーチャル・リアリティ)を取り入れても身体は消えない。(略)自分の肉体と楽しみながらつき合っていく一つのきっかけがスポーツなのではないか》(東京大学先端科学技術センター稲見昌彦教授)
パリ五輪を「感動ポルノ」で終わらせないよう心がけたい。
(註:この文章は、日経編集部に要求されたものより、少々長くなっており、日経掲載時は若干カットしたことをお断りしておきます)
|