京都に生まれ育った人間は、ふつう中学校の修学旅行で「東京初体験」を済ませる。
そして、「ビルと自動車と人間が多いだけで、文化も伝統もないとこや」などとイッパシの口をきくようになり、おそらく明治天皇の御幸で首都の座をうばわれて以来の伝統といえるものなのだろうが、なにかにつけて東京を軽視し、蔑視し、敵視する京都人としての心構えを身につける。
ところが、わたしの場合は、中学時代にバドミントンというスポーツに入れ込んで勝ち進み、近畿大会と修学旅行のスケジュールが重なったことから修学旅行に参加できなかったため、ふつうなら簡単に済ませる初体験を仕損じ、童貞時代が長くつづくことになってしまった。
高校の修学旅行で北海道へ行ったときは、はじめて東京に足を踏み入れたが、新幹線から東北本線への乗り換えで東京駅や上野駅のホームを歩き、山手線に数分間ほど乗っただけ。インターハイの群馬大会に出場したときも、同じ。高校三年の春にはベルリン・ドイツ・オペラの来日公演を見るために上京したが、小遣いのすべてが旅費とチケット代に消えていたため、東京駅の赤煉瓦と皇居のお堀をチラッと見ただけで日生劇場に直行し、公演が終わるとすぐに夜行の鈍行に乗ってUターンするほかなかった(註・この詳細については、『蔵出しコラム・音楽編』のバックナンバーをご覧ください)。
これだけニアミスがつづくと、やはり東京へ行きたいという思いがつのった。
おまけに京都のなかでも祇園という古臭い街にうまれ、「京の茶漬け」の世界に嫌悪感をいだいていたこともあり、その対極にあるもっとも現代的な都会での生活にあこがれる気持ちがいっそう強まった。
そこで昭和46年、東京の大学をめざして上京したのだったが、試験会場へ行く途中、ビルのあいだから鉄塔がちらりちらりと見えるたびに、おっ、あれが東京タワーか・・・、あっ、こっちにも東京タワーがある・・・などと目がきょろきょろして、試験どころではなくなった。
しかも、このときの「初体験」は、無惨に期待を裏切られてしまった。
本郷通りを走っていた都電がチンチン音を鳴らして走る姿を見て、三四郎が見た世界とおんなじやないか、と仰天した。子供のときに目にした記憶しかない傷痍軍人が、白い服をまとって陸軍の帽子をかぶり、アコーディオンをひきながら、まだ街の角々にすわっていたことにも驚いた。『青い山脈』の時代のものだと思っていたセーラー服姿の女子高生がいたことにもあきれかえった。京都ではセーラー服など何年も前に消え失せ、カルダンのデザインした制服が話題になっていた。
なあんや、東京は京都よりも古臭いとこやないか・・・というのが、そのときいだいた正直な感想で、そのまま京都にもどって腰を据えれば、わたしも完璧な京都人になれたのだろう。が、東京での大学受験に失敗して「京の茶漬け」を実践するのは、やはり負け犬の遠吠えのようにも思え、翌年も東京の大学に挑戦した。
すると、意地だけで新幹線に乗った二度目の体験で、東京は、かつて憧憬の眼差しで夢に見ていた姿を実像として目の前に出現させてくれた。
まず、本郷通りの都電がなくなっていた。セーラ服はのこっていたが、傷痍軍人の姿は消え失せていた。本物の東京タワーを見定めることができるようになった目には、新しくできた高層ビルや高速道路がとびこんできた。わずか1年のうちに、街の様相がいたるところで激変していた。20年近く暮らしても、ほとんど街並みに変化のない世界で過ごしつづけてきた人間にとって、これはすばらしい驚異だった。
さいわい2度目の受験に合格し、この変貌しつづける街で生活をはじめるようになったのだったが、そのまえにちょっとした事件があった。
入学金や下宿の費用などを、居候している友人宅宛に現金書留で送ってほしい、という手紙を親に出したところが、持参する、という返事が母親からかえってきたのである。
これには、まいった。まだ、まともに地下鉄にも乗れない自分が、母親を連れて東京案内などできるだろうか・・・。
もっとも、その心配は杞憂に終わった。
「東京見物なんかせんでもええ。近所に南座があるんやから、歌舞伎座なんか見たいとも思わんし、浅草の観音さんなんかおまいりせいでも、まいにち祇園さん(八坂神社)にまいってるよって十分。下宿の大家さんにちょっと挨拶したら、それだけでええんや」
しかし、母の東京日帰り旅行がすんなり終わったわけではなかった。
「やっぱり大学を見てみたい」
といいだした母親に、
「ほな、あんまり遠ないからタクシーで」
といって八重洲の駅前でタクシーを待った。
ところが、タクシーといえば小型にしか乗ったことのない親子は、当時都内に5〜6台しかなかった小型タクシーが来るのを延々と待ちつづけ、次々と走り込んでくる中型車を、列に並んでいた次のひとに譲りつづけた。
そして30分以上も待ちつづけたあげく、ようやく、どうも東京では小型タクシーは走ってないらしい、と気づき、
「なんか社長さんになったみたいなきぶんやなあ」
といってはしゃぐ母親とともに、少々照れながら中型車に乗り込んだのだった。
大学の構内をすこし歩いたあと、昼食をとるために小さなうどん屋にはいったときは、もっと大きなカルチャー・ギャップに遭遇した。
目の前に出てきたうどんを見るなり、母親が「うわっ」と驚嘆の声をあげた。
「何やねん、これ。ダシが真っ黒けやないか」
そのうえ、
「えらい、まあ、きたないうどんやこと」
と、けっして小さくない声を張りあげたものだから、店の主人が怒りだした。
「気にいらねえなら、とっとと出てってくれ」
その怒鳴り声に、亀のように首をすくめながら「真っ黒けのうどん」を食べたあと、店を出た母親が、
「東京って、おもろいとこやなあ」
と上機嫌だったことに、さらに驚かされた。
「東京のひとって、役者の台詞みたいにしゃべるよって、芝居見てるみたいでおもろいなあ・・・」
その後、大学の授業にも下宿での暮らしにもどこか違和感をいだきつづけ、「東京」に入れ込むことができないまま大学を中退し、物書きというドロップアウトした生活をするようになったのは、このときの母親の言葉が影響しているようにも思える。
わたしには、東京という街が、いまも「芝居の舞台」のように目に映るのである。そんな感覚を、最近の言葉で表現するなら、ヴァーチャル・リアリティというのだろう。 |