いま、ベネズエラが注目されている。といっても、反米で名を馳せたチャベス政権の話題ではない。中国へ大量輸出している石油のことでもなければ、アメリカ大リーグで活躍している野球選手の話でもない。
いま、ベネズエラで世界から注目されている話題は、クラシック音楽である。
約30年前の1975年、経済学者で作曲家で国会議員や文化大臣を務めたこともあるホセ・アントニオ・アブレウ博士という人物が、子供たちを貧困と麻薬と犯罪から救うための音楽教育を提唱し、『国立ベネズエラ青少年児童交響楽団システム財団』通称『エル・システマ』を創設した。
最初は街角の駐車場に11人の子供たちを集め、楽器の演奏を教えはじめただけだったが、その運動は年を追うごとに大きく発展し、今日では全国に90以上の児童オーケストラ、130以上の少年オーケストラ、30以上の成人のプロ・オーケストラが生まれ、約25万人のメンバーと1500人の指導者を擁する大組織になった。
この『エル・システマ』に加わっているメンバーの約75パーセントが貧困層に属する子供たちで、音楽をやってみたいと思った子供たちは、3歳になると希望する楽器を国から無料で貸与され、全国各地にある研修所に通うことができるという(そのため財団は、日本やヨーロッパ諸国から、中古の楽器の寄付を募っている)。
しかも、その教育内容がユニークで、まだ楽譜も満足に読めないうちから児童オーケストラの一員となり、ベートーヴェンやチャイコフスキーの交響曲を演奏するのだ。
そこで優秀な技術を身につけた子供たちは首都カラカスに集められ、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ(SBYOV)というオーケストラの一員となる。約200人のメンバー全員が20歳代。このオーケストラを指揮するのも、1981年生まれで弱冠27歳のグスターボ・デュダメル。
彼も、『エル・システマ』の教育システムで育った音楽家で、16歳のときからSBYOVの指揮者として活躍。
2004年の第1回グスタフ・マーラー指揮者コンクールで優勝して脚光を浴び、いまではベルリン・フィルやロサンゼルス・フィル、さらにベルリン国立歌劇場など、世界の超一流オーケストラやオペラ座の指揮台に立つまでになった(最近、ロス・フィルの音楽監督就任が決定した)。
そしてデュダメルの指揮するSBYOVは、名門ドイツ・グラモフォンと専属契約を結び、ベートーヴェンやチャイコフスキーやマーラーの交響曲のCDを発売し、ヨーロッパや日本へも演奏旅行を行うまでになった。
その演奏(マーラー作曲『交響曲第1番巨人』)を昨年12月、東京で聴くことができたが、若いエネルギーと喜びがメンバー全員の全身から爆発するようなじつに見事な演奏だった。しかもアンコールでは、赤・青・黄の派手なベネズエラ国旗カラーのジャンパーに着替えたメンバーたちが立ち上がって踊りながら『マンボ』(バーンスタイン作曲『ウェスト・サイド・ストーリー』)を演奏し、観客を興奮の坩堝に巻き込んだ。
その中味の見事な演奏もさることながら、このような素晴らしい音楽家たちが、貧困と麻薬と犯罪から子供たちを守ることを目的とした社会活動のなかから生まれ、現在もその活動が繰り広げられていることに対して、最大級の敬意を払うとともに驚きを禁じ得ない。
もちろん、ベネズエラの人口約2500万人の約1パーセントが参加する活動によって、貧困や麻薬や犯罪が解消できるとは思えない。が、わずか20数年で、これほどまでに多くの若者たちを「救い」、アイデンティティと生きる希望を与えた活動は、絶賛されるべきだろう。
しかも、過去に何人か出現した南米出身の一流のクラシック演奏家たちも、その活動の拠点はヨーロッパや北米が中心で、クラシック音楽「不毛の地」といわれていた南米の一角から、ベネズエラ国民の誇りといえるメッセージが全世界へ向けて発信され、さらに世界の超一流の指揮者や演奏家たち――クラウディオ・アバド(ベルリン・フィル元音楽監督)、サイモン・ラトル(同現音楽監督)、マルタ・アルゲリッチ(ピアニスト)、プラシド・ドミンゴ(テノール歌手)など――がベネズエラの地を訪れ、彼らと演奏をともにしたうえ、「世界のクラシック音楽界で起きている最も重要な出来事がベネズエラにある」(ラトル)という声まで聞かれるようになったのだ。
メディアは、常に衝撃的な事件や扇情的な話題を取りあげがちで、地に足をつけた人間の日常活動には、「事件性」が希薄という理由から目を向けることが甚だ少ない。が、このベネズエラの『エル・システマ』の営みは、世界中のあらゆる国々の教育モデルとなる素晴らしい驚異的な「大事件」といえるに違いない。
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