「湯水のように使う」という常套句が、日本語にはある。いや、あった、というべきかもしれない。
雨が大量に降り、豊かな山林の育った結果、日本列島は豊富な川の水と地下水に恵まれ、そこに暮らす我々日本人は、お金でもなんでも無駄遣いすることを「湯水のように使う」と表現した。水はどれだけ無駄に使っても、なくなることなど考えられなかったのだ。
もちろんこれは、「世界の常識」から大きくかけ離れた、日本人にしか通用しない「言葉」だった。砂漠の広がるアラブ諸国ではもちろん、アメリカでもヨーロッパでも、水は(とりわけ飲料水は)きわめて貴重なもので、「水」を「湯水のように使う」ことなど考えられなかった。
だから、かつては海外旅行をした日本人の誰もが、レストランで注文しないと水がテーブルに出てこないことに驚いた。ジュースでもビールでもワインでもない、ただの水が、瓶に詰められて売られていることを怪訝に思ったものだった。
現在では様々な自然環境の悪化が水道水にまで及んだうえ、水も限りある資源のひとつと見なされるようになり、水を買い求める人も珍しくなくなった。そして、「湯水のように使う」という言葉を聞くこともほとんどなくなった。
「道」の話を始める前に、もうひとつ似たような話題を書いておきたい。
「空気のような存在」という言い回しがある。長年連れ添った夫婦が互いに相手のことを口にするときなどに用いられる。あるいは特別な環境に育った人が、それを特別な環境とは気づかなかったことを表現するときに使われる。音楽家の家族に育って音楽家になったような人物が、「ピアノやヴァイオリンは、赤ん坊の頃から空気のような存在でした」といった具合に。
つまり、本当は凄く大切で欠くことのできない存在だったり、特別な種類のものが、あまりにも当たり前に周囲に存在しているものの喩えとして、「空気」という言葉が用いられる。それが日本語にしかない表現なのかどうかは知らないが、「湯水」とは違い、この比喩はどんな外国語に翻訳しても、その意味は通じるに違いない。
では、「道」や「道路」というのは、いったいどういう存在ということができるだろう?
現代の日本で生まれ育った人のなかに、道なき原野に自ら道をつくった人など、おそらく皆無だろう。道は、わたしたち現代人が生まれたときから、既にわたしたちの目の前に存在していた。
とはいえ、わたしが小学生のころ(昭和30年代)までは、日本の道は、まだまだ整備されていなかった。はっきりした数字は憶えていないが、小学校の社会科の授業では、日本の道路舗装率がアメリカやヨーロッパ諸国に較べてかなり低いものであることを教えられた。
高架の高速道路は昭和39年の東京オリンピックを契機に首都高速1号線と名神高速道路が生まれるまで、日本にはまったく存在しなかった。『冒険王』『ぼくら』『ボーイズ・ライフ』といった少年雑誌のグラビアに紹介されていたアメリカやドイツの高速道路の写真を見て、さらに、クローバー型やハート型をしたインターチェンジのイラストを見て、子供心に「凄い!」と思い、こんなにデッカク美しい道路は、狭い日本にはとてもできないものと思ったものだった。
それが、いまでは、いつの間にか「道路舗装率」という言葉が死語となるほど道路の舗装は当然のこととなり、高速道路もインターチェンジも、べつに少年の心をときめかせるような建造物ではなくなり、何処にでも存在するものとなった。
日本の「道」は、ある意味で「水」や「空気」と同じように、存在して当然のものであると思われるような存在になったのだ。が、誰も、道路を水や空気に喩えようとはしない。道は水のようなもの、道は空気のようなもの、といった表現は、いちども耳にしたことがない。
いや、わたし自身、この「北海道みちとくらしと未来のネットワーク」の委員として委員会に出席し、道についていろいろと考えるようになるまで、道を水や空気と同様のものと考える発想などまるで浮かばなかった。
それは、ひとつには水や空気が自然界に存在するものであり、それに対して道は人工的につくられるものというまったく正反対の根本的な違いがあることを無意識のうちに認識しているためだろう。
道は人間がつくりだすもの。しかし水や空気は自然界に存在しているものであり、人間がつくりだすことは不可能なもの。その違いは、誰に教わらなくても、誰もがわかっていることといえる。だから、根本的に異なる存在である両者を、似たものと考えて喩えることはないのだ。
が、ここにひとつの陥穽がある。
現代の日本社会においては、水は人工的につくられた水道によって得ることのできるものとなっている。いまや、川や池で洗濯をする人もいなければ、体を洗う人もいないわけで、地震などの何らかの事故で水道が断水したら、多くの人がバケツを手にして給水車に群がり、ペットボトルに入った水を買い求めてコンビニへ走る。そのことでもわかるように、水は、人工的につくられた水道(水の道)を経由してしか手に入らないものとなっている。
電気を用いた浄化装置とポンプが起動しなければ、現代社会におけるわれわれの生活を維持することのできる水を得ることはできず、水は、道と同じような「人工物」ともいえるのだ。だからこそ、現代では、どんなに多雨で水に恵まれた国でも、「湯水のように使う」あるいは「湯水のように使える」という表現が死語と化してしまったに違いない。
空気も似たようなものである。大気汚染や二酸化炭素の排出量に対する規制は、人工的に行われるものであり、自然界の空気を人工的に変化させてしまった結果、人工的に制御しなければならないというジレンマを避けるには、電気も自動車も存在しない前近代の生活に戻るほかなく、それは不可能というほかない。現代社会では、空気も、道と同じように人工的に整備されるもの、整備しなければならないもの、といえるのだ。
それでも、道を水や空気に比する言葉がなかなか人口に膾炙しないのは、もうひとつ別の理由があるからだと思われる。
それは、道が、空気や水ほどには重要なものと思われていないからだろう。
空気や水が失われれば、人間は死ぬ。それらは人間が生きるために必要不可欠な存在であると、誰もが知っている。が、道は、どうか?
病院へつながる道、救急車の走る道、消防車の走る道。すべて人間の命に直結しているものといえる。先に書いたように、地震などの震災や事故で断水したとき、給水車が走るにも道は欠くべからざる存在となる。いや、そのような緊急事態ではなくても、食料を運ぶトラックの走る道はもちろん、どんな仕事が営まれるのにも、どんな娯楽が楽しまれるのにも、すべて道という存在がなければ、あらゆることが不可能となる。
それが現代社会であり、道路は現代社会における文字通りの生命線であり、現代社会に生きる我々は、整備され容易に通行できる便利な道路が存在しなければ生きてゆくことができないのである。つまり、道は、我々現代人にとって、空気でもあり水でもあり、大地という自然の上に人工の手を加えて初めて手に入れることのできる、現代人の生命維持装置といえるのだ。
そんな道が、日本の未来社会においてはどうあるべきか、どのような道が建設され、どのように進化させていくべきか。
交通事故の起こらない道、渋滞の起こらない道、あらゆる自然環境に左右されずに機能する道、人々の心が明るくなるような楽しい道・・・。考えることは山ほどある。実践すべきことは山ほどある。実践できることも山ほどある。
「北海道みちとくらしと未来のネットワーク」では、そのようなみちに関して「考えること」「実践すべきこと」「実践できること」を話し合い、討論し、さらに、道路建設、IT開発、行政や市民運動の専門家の諸先生方から多くのことを教わった。
が、わたし個人にとって、最も大きかったのは、日頃目の前に存在して当然と思っていた「道」というものが、じつは「空気」や「水」と同じくらいにきわめて重要なものであると気づけたことだった。高速道路の建設問題も、未来の道路開発も、道を使ったイベントやお祭りも、すべてはこの単純な事実が明確に理解されたうえでしか成り立たないのだ。
本来ならば、道に関する新たな提言、具体的内容を記すべきだったかもしれないが、この単純な事実がまだまだ多くの人々にはっきりと理解されているとは思えないので、この機会に書かせていただいた。
道は、過去には人間の発展とともに広がり、その発展を支えるものだった。が、現代社会における整備された道路とは、空気や水とまったく同じ、現代人にとっての生命線なのだ。だから道について考えることは、人間の未来そのものについて考えることと同じくらいに重要なことといえるに違いない。 |