最近サッカーの取材でミラノへ行き、ついでに有名な大聖堂を見た。それは「ついで」というにはあまりに大きな体験だった。
この壮大な建築物は、いったい「何」なのか?
高さ百メートルを超す百本以上の尖塔と、三千以上の彫像と、豪華なステンドグラス。五百年もの歳月をかけて、このような壮大な建造物を建てたエネルギーは、いったい何だったのか?
1時間以上大聖堂の前で呆然と立ち尽くした謎を、酒井健『ゴシックとは何か』(講談社現代新書)が解き明かしてくれた。
大聖堂は、けっしてキリスト教の産物ではなかった。尖塔は森の象徴でもあり、ケルト、ノルマン、ゲルマン、ローマ等々異教の信仰が混淆したものだという。
さらに、ドイツ的でもあり、フランス的でもあり、《正統派古典主義かと見紛うほどの合理的な面(例えば堂内の列柱の配置)と、理性的な節度を逸脱している面(過剰な装飾)。(略)都市的な面と農村的な面。宗教的な面と世俗的な面(略)。貴族の高雅さと楽しげな庶民の生活(略)。非物質的な光りと物質的な光りのつながり》等々《根源的に異なるものがじつに多く共存している》
それが、ゴシックの圧倒的な迫力を醸し出しているのだ。
本書は、中世ヨーロッパの庶民や修道士の生活気候風土から説き起こし、英国国会議事堂やノートルダム寺院をめぐるゴシックの復活、印象派の絵画からエッフェル塔にいたるまで、あらゆる「ゴシック」のすべてを眺めるなかで、壮大なヨーロッパの精神史をひもといた名著である。
荒俣宏『万博とストリップ――知られざる二十世紀文化史』(集英社新書)によると、第二次大戦前の万博は、女性の裸体(ストリップ)によって盛りあがり、特に《二つの万博(1937年パリ万博1939年ニューヨーク万博)は女性の曲線によって「未来」を表現した》という。
が、人々は第二次大戦で「未来」に絶望し、万博は一時SF的な新たな未来を提示したが、《今や、未来そのものの訴求力すら失うこととな》り、ストリップも《ありきたりの見世物へと降下してしまった》。
かつてはナンデモアリでゴシック的だった万博も、いまでは金はあっても頭(アイデア)のない連中が自然破壊の隠れ蓑に利用するのみ――というわけか?
ならば、木村政雄『笑いの経済学――吉本興業・感動産業への道』を読み、ナンデモ(地域開発も大学再興も老人介護もスポーツも)「感動産業」(金儲け)にする吉本のやり方を見習ったほうが、タテマエがないだけに罪もない。
《おもしろかったならお金を払ってください、感動したからお金を差し上げます。これらはどんなケースでも本音から出た等価交換です》
今回は、「文化」を考え直す三冊でした。
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