京都祇園の南座の裏にある商店街の一角という都会のど真ん中、色街のすぐそばに生まれたおかげで、その界隈で育った連中の御多分に漏れず、なにかにつけて早熟だったように思う。
小学二年生の遠足で動物園へ行ったとき、若い女の先生が、「さあ、みんなの好きな歌をうたいましょう」といったところが、♪も〜しも〜しベンチでささやくお二人さん・・・という大合唱がはじまり、母親たちが笑いころげるなか、先生が赤面したことをいまも憶えている。
その若い女の先生は、子供たちに「わたしのお父さん」という作文を書かせたことで母親たちの反発をかい、その年で転任させられてしまった。祇園町で「父親」のことに触れるのは(それも学校のようなオフィシャルな場では)非常識きわまりない行為だったのである。
わたしの父は電器屋だったから、その点では問題なかったが、どの家よりも早くからラジオやテレビがあったので、だれよりも早く流行歌の洗礼をうけていた。
じつは、♪も〜しも〜しベンチでささやく・・・は、わたしが音頭をとったのであり、さらに、♪お〜い中村くん・・・とか、♪ヘイ、マンボ、マンボ・イタリアーノ、ヘイ、マンボ・・・などとつづけ、母親から「ええ加減にしいや」」と叱られた。
その遠足での出来事が、晩ご飯のときにも話題になり、「ほんまに恥かいたでえ」という母親に向かって、「ほな、どんな歌やったらええちゅうねん?」と小生意気に反論するわたしの会話を、晩酌を傾けていた父が、笑いながら聞いていた。そして、「お父ちゃんなんか、仕事が忙しいよってに、歌のことなんかぜんぜん素養ないけどな・・・」といったあと、彼が口ずさんだ歌を聴いて仰天した。
それは「これが歌か?」というほかないシロモノで、リズムもなければメロディもない。それどころか抑揚すらない。ただモゴモゴとわけのわからない言葉がのんべんだらりとつづくだけで、わたしは、本当に気分が悪くなるような気がして、「けったいな歌やなあ。ごはんが食えんようになるよってに、やめてえな」といった。
ところが父は、その歌がよほど気に入っていたのか、その日から毎晩のように晩酌が済むたびに赤らめた顔を突き出すようにして、その歌を唸(うな)った。
まさに「唸った」としかいいようのないその歌が、歌舞伎の『勧進帳』の一節であるとわかったのは、それから何年かあと、はじめて南座の顔見世に連れて行かれたときのことだったが、そのときすでに、♪旅の衣は篠懸の、露けき袖やしおるらん・・・というメロディが耳にこびりついていたわたしは、小学生でありながら、ごく自然に古典の舞台にのめりこむことができたのだった。
いま考えてみると、それは、旧制の夜間工業専門学校しか出ることのできなかった父が、わたしにたいして施した唯一の情操教育だったようにも思われる。 |