生まれは祇園のど真ん中。といっても御茶屋ではなく、いわば祇園の台所、近所の商店街の電器屋のせがれでした。横道に入るといつも、三味線の音が聞こえ、浴衣姿の舞妓さんが歩いていました。
若いころは古臭い祇園の街が嫌で、大学入学を機に逃げるように上京……ではなく東京へ出て行きました。ところが30代半ば、なぜか故郷が気になり始めた。ノスタルジーに似た感情の正体が知りたくて、39歳のときに小説「京都祇園遁走曲」を書きました。主人公「新吉」は生まれ育った祇園が嫌で嫌でたまらなかったが、いざ東大に合格して上京するとなると、故郷に愛着が湧くというストーリーでした。
その2年後、「わたしが京都を棄てた理由」というエッセイ集も書きました。題名の「棄てた」の文字に赤い二重線を引き、「好きな」と修正する装丁にしてもらった。棄てたけど、嫌だけど、好き。この屈折が京都人。京都出身者って、あまり自分から取り立てて出身地を言おうとしない。京都的な美観に合わないから。なんか、いやらしいですから。
京都の言葉は、非京都人には理解が難しいことがあります。ラグビーの平尾誠二さんが主将として神戸製鋼を率いていた時代の話。ある女性アナウンサーに「今年は優勝できますか」と尋ねられた時の、平尾さんの答えがいかにも京都人らしかった。「でけるんとちゃうのんかなぁ」。隣で聞いていた私は「すごい自信だ」と内心うなりました。でも、アナウンサーはニュアンスが分からなかったようで、私に向かって「今のはできるという意味? できないという意味?」と聞いてきます。私の答えは「でけるいうこととちゃうのんかいなぁ」。結局、彼女は最後まで困惑顔でした。
「ちゃいまっか」とか「そんな言わんかてよろしおすやん」とか。京都の言葉は断定を微妙に避けるんです。すぐ白黒付けたがる今の政治を見ていると、政治家に京都の言葉を学んでほしいくらい。橋下徹・大阪市長は文楽を「つまらない。二度と見ない」と断じましたが、京都なら「分からんお人は何も言いなさんな」と言われて終わり。祇園では総スカンでしょうね。
1990年代初め、京都ホテルが高さ60メートルの高層ビルを建てて大論争になった時も、祇園の人は「高層ビルなんて100年経てば潰れてしまうもんどす」「お寺はんも、京都ホテルに泊まってる客は拝観させへんやなんて、おいど(尻)の穴が小そおす」と言っていました。京都を離れて「高層ビル反対」という単純な発想しかできなかった私は、長い歴史に裏打ちされた祇園の人の、ある意味過激な意見に驚かされたものです。
サッカーチーム「京都パープルサンガ」(現在は京都サンガF.C.)がJリーグに参加し、チームの首脳陣が「日本一を目指す」と言った時も、祇園の人たちは笑っていました。「日本一は目指されたことはあっても、目指したことなんておまへんなあ」と。木曾義仲以来、織田信長も長州藩もみな日本一になるために京都に上り、闘った。「そういう京都が今さら『日本一を目指す』なんて」というわけです。
今や私の生家があった商店街の近辺は駐車場街に変わってしまいました。でも祇園の御茶屋さんはバブル崩壊後も1軒もつぶれなかったそうです。今では祇園だけが「非日常」の街であるかのように観光客を集めていますが、あの街は昔からの「日常」が変わらず残っているだけ。むしろ変わったのは周囲の方です。まげを結い、だらりの帯を締め、地唄を謡い、京舞を舞い、華道、茶道、習字、日本画を学ぶ舞妓はんは、室町時代の京の商家の娘さんの姿なのです。
祇園には、人を「京都」に染める力があります。最近の舞妓さんはほとんどが外から来た人ですが、京都に染められ、立派な舞妓はんに育っていく。うちのおやじだって徳島県出身ですが、いつの間にかすっかり京都の人になってました。
かつて京都市の京阪電車が地下化され、川端通が拡幅される時、市役所の最初の計画を聞いて、宮川町の人たちやウチのお袋はえらく怒ったものです。街路樹がポプラ並木か何かだったそうで。「あほか。街路樹いうたら、柳か桜に決まってるやろ」と。今? 桜並木になっています。鴨川べりが桜並木で、東西と北の三方の山の緑があり続ける限り、いつの時代も京都はやっぱり京都やと思います。【聞き手・小国綾子】
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ちょっと注釈を付けておきますが、京都も変なビルディングがいっぱい建てられて、街並みはグジャグジャになってきています。しかし、市内から見える北山、東山、西山には、高圧線の送電線も、それを支える鉄塔も見えません。「京都」が守られてちゅうのんは、それくらいのもんとちゃいますのんかいなあ。けっして小っちゃいこととはいえまへんけどな。 |