もう半世紀近くも前のことになったが、大学入学で生まれ育った京都祇園町を離れ、初めて東京へ出てきたとき、母親が用意してくれた生活用品がこの小さな薬缶と小さな鍋だった。
世田谷区下高井戸付近にあった二階建てモルタルづくりのアパート。一階が大宅さんの自宅で、二階に四畳半のガスコンロ付き、トイレ共用の部屋が四部屋。その一室で一人暮らしの生活を始めたのだが、自炊などほとんどせず、薬缶で茶を煎れることもなく、せいぜい鍋で湯を沸かしてインスタントラーメンをつくる程度。近所の喫茶店や中華料理屋でカレーやラーメンを食べることが多かった。
しかも大学では、シェイクスピアの翻訳で有名な小田島雄志先生の研究室に入り浸りで、ほとんど授業には出ず、そのうち小田島先生の紹介で始めた新聞連載の仕事が忙しくなり、ミニコミ出版の編集に参加したり、歌手の浅川マキさんの事務所でバイトをしたりするうちに、大学は中退する羽目になった。
そこで一応区切りをつけておこうと退学届を出したところが、大学の教務課の職員が、両親に連絡。自分勝手に退学したことで怒り心頭に発した父は、月々4万円の仕送りも止めて小生を勘当。その半年後くらいに母から受け取ったのが、現金書留五万円入りの手紙だった。
手紙は無くしてしまったが、短い文面は今も憶えている。「ガンバッテシゴトスルヨウニ。マタイツカゲンキニモドッテキテクダサイ。ハハ」
おそらく手紙など書いたことのない母が、何かのチラシの裏に書いたカタカナ文字には心底マイッタ。
それ以来小さな薬缶を手放せなくなった。鍋はアルミ製のありきたりで、早々に捨てたが、小さな薬缶は、小学校の給食で使った大きな薬缶をそのまま小さくしたような可愛い姿で、今も母親が何かを語りかけてくれてるように見えなくもない。
だから四畳半から三畳と六畳二間のアパートに越したときも、結婚して2DKに、子供ができて4DKに、さらに一軒家に越したときも、小さな薬缶は常に一緒に引っ越した。
この小さな薬缶は、じつにいい形をしてますよね。 |