掲載日2003-12-22 |
この原稿は、数年前(2001年だったか)「四季の味」という雑誌に書いたものです。 |
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不味いものが食いたい! |
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今年の春も、ゴールデンウィークの直前に、京都の祇園町で暮らしている八〇を過ぎた老母から、旬のタケノコが届いた。
毎年思うことだが、タケノコはやはり京都にかぎる。香りが違う。柔らかさが違う。舌触りが違う。噛み心地が違う。文句なしに美味い。文句などいったらバチがあたるほど美味い。
いつもは肉ばかりにフォークを伸ばしている我が家の三人の子供たちも、この日だけは急に歳をとったかのようにタケノコに箸をのばす。タケノコの木の芽合え、タケノコのお吸い物、タケノコ御飯といたタケノコづくしに舌鼓を打つ。そのとき、
「やっぱり、タケノコは京都だな・・・」
と、中学三年の末の息子が呟いた。
その言葉が、わたしの喉元に少々引っかかった。これは、一五歳の子供が口にする言葉ではあるまい。
そういえば、我が家のガキどもは、最近というか、生まれてこの方、不味いものを食ったことがない。
豆腐もお揚げも京都から送られてくる。これが、また頬が落ちるほど美味い。秋になれば、やはり京都から松茸が届く。古代ローマ皇帝のネロもカリギュラも体験しなかった贅沢である。ひょっとして、信長、秀吉、家康が口にしていたものより美味ではないか、とも思われる。
そんな特別な贈り物だけではない。大船にある我が家の近くには、日本一といえる穴子を出してくれる寿司屋がある。たまにガキどもを連れていくこともあるので、ガキどもは回転寿司を拒否するようになった。
大船には、皮もハツもカシラも軟骨も天下一品で、さらに舌のとろけるような牛タンを食わせてくれる焼鳥屋もある。見事にスパイシーなカレーつくるインド料理店もある。その結果、ガキどもは、コンビニで売っている焼き鳥にもレトルト・カレーにも、反応が鈍くなってしまった。
とはいえ、回転寿司もコンビニもレトルトも、けっして不味いものではない。
つい最近、わたしは、あるコンビニで売っていたペペロンチーノを食べて、あまりの美味しさに仰天した。渋谷で回転寿司に入ったときも、回転寿司が出まわりはじめたころによく見かけた、誰も手を出さずにネタがひからびてしまったようなマグロや、骨が喉に刺さる穴子など存在せず、どれもこれも新鮮なネタでナカナカに美味かった。
そうなのだ。最近は、不味い料理、不味い食い物といえるものと、ほとんど出逢わなくなってしまったのだ。
わたしが小学生のころ(四〇年ほど前)は、給食の粉乳が、反吐を吐きたくなるほど不味かった。誰もが鼻をつまみながら口から喉へと流し込んだ。野菜炒めも、味のついていないキャベツの芯ばかりで、ウスター・ソースを山ほどかけ、その味でごまかさないと食べられなかった。そのソースも、いまのソースとは較べものにならず、ただ辛いばかりで、一個五円のコロッケや一枚十円のトンカツに味らしきものを付けるのに役だっただけだった。生まれて初めて、トロリとしたトンカツ・ソースを舐めたときなど、そのあまりの美味さに死んでもいいと思ったくらいだった。
コロッケやトンカツの横に添えられていた野菜も、キャベツの千切りしかなく、レタス、サラダ菜、セロリ、ルッコラなどと出逢ったのは、社会人になってホテルのレストランに入ってからのことである。そういえば、むかしはニンジンやトマトも今日のそれらのように甘くもなかったし、大根は辛くて鼻を突いたものだった。
しかし最近は、日本の社会から不味いものが一切消えてなくなった。ちょっと味が落ちると思える食い物はある。が、不味くて食えないものなど、存在しない。
はたして、これは、いいことなのか? 進歩といえるのか? 不味いものがなくなるということは、美味いものもわからなくなる、ということではないのか?
そう思うと、なぜか不味いものが食いたくなってきた。ベトベトのケチャップの味しかしないナポリタン・スパゲッティや、脂の味もしないのに脂の浮いたラーメンなどが、懐かしく感じられ、それらの不味い味わいが口の中に甦ってきた。
うむ。それらの不味い味を忘れないようにしよう。そうでないと、美味いものの味もわからなくなる。そんな結論に達したわたしは、子供たちが京都のタケノコを頬張っている姿を見ながら、「可哀想に・・・」と胸の中で呟いたのだった。 |
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