第7回 スポーツする身体エドガー・ドガ『観覧席前の競走馬』
イングランドで生まれ発展した夏のスポーツは都市が舞台。
冬のオリンピックが雪と氷の自然のなかで行われるのに対して、夏のオリンピックは人工の競技場や体育館で行われ、マラソンも人工の舗装道路の上を走ること、と規則に定められている。
人間の肉体という自然の所産を、ヤハリ自然の所産である雪や氷の自然環境と一体化させるのがウィンター・ゲームなら、サマー・ゲームは人工物に囲まれて、より肉体という自然を際立たせ、意識するためのスポーツと言えよう。
ならば印象派の画家たちが好んで画題に選んだ競馬は、どんなスポーツといえるのだろう?
ドガは、着飾った都会人で溢れるパリ・ロンシャン競馬場の観客席の前に勢揃いする、馬にまたがった騎手たちの姿を描いた。
レース前の長閑な一瞬。しかし傾いた夕日の中に緊張感が迫る。出番前の「踊り子」の姿と同じだ。遠くには工場の煙。その日常の労働の場(工場)から離れた、非日常の時空間(競馬場)。
サラブレッドは自然の生物? それとも、人工の産物か? 走るためだけにこの世に送り出された美しい生物にまたがった騎手たちは、迫り来る非日常のゲーム(遊び)の一瞬を待ちかまえる。
色とりどりのパラソルを広げ、美しく高価なドレスに身を包んだパリジェンヌを見つめる騎手たちは、何を思う?
日常と非日常、人工と自然の交錯する瞬間こそスポーツが際立つのだ。
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第8回 スポーツする身体ルネ・マグリット『迷える騎手』
100メートル走の世界記録は9秒58。マラソンは2時間3分38秒。
だから、どうした? 早く目的地に行きたいなら、自動車に乗れば済む。なのに人間はなぜ走る?……と考え始めると、悩みは深く果てない。それは、なぜ生きる? と問うのと同じ。生きる意味……その答えを得るのは困難だ。
だから人は、100メートルや42・195キロに長さを区切り、とりあえず「速さ」という物差しで、走る意味、生きる意味の答えを得て、心の落ち着きを得ているのかもしれない。
しか、それでもし人間にとっての根源的な問いかけは、消えない。
なぜ走る? なぜ生きる?
シュル・レアリズムの画家ルネ・マグリットは、サラブレッドに跨って鞭をふるい、懸命に疾駆する騎手の姿を、何枚か描いた。騎手の顔は見えない。馬はたてがみと尻尾をなびかせて必死に走る。何処へ向かって? なぜ走る?
馬と騎手の周囲には九柱戯のピンが森のように立ち並び、寒々とした冷たい青空に向かって枯れた枝を、鋭く痛々しく何本も伸ばしている。
森? 青空? いや左右に幕がある。ここは舞台だ。「迷える騎手」と馬は観客に見つめられ、聴こえない音楽が響く中、見えないゴールに向かって疾駆し続ける。
人間は「迷い」ながら走るほかないのか?
幕が閉じれば観客は拍手をするだろうか? |