最近私は「スポーツの本」ばかりを読み漁っている。
というのは、某出版社の文庫編集部から日本の「スポーツの本」のアンソロジー(選集)の編集を依頼され、同時に某新聞社から日本の「スポーツの本」に関する短期連載を依頼されたからだ。
そして、この作業が予想以上に面白く、夢中になってしまった。
日本の「スポーツの本」と言えば、十代や二十代の若い頃に雑誌『ナンバー』の創刊(1980年4月)と出逢った世代の人々は、山際淳司の『江夏の21球』の印象が強く、さらに沢木耕太郎、海老沢泰久、そして金子達仁……と続く〈スポール・ノンフィクション〉を思い浮かべる人が多いかもしれない。
もっと〈純文学的なスポーツの本〉が好きな読者は、村上龍のテニス小説『テニスボーイの憂鬱』やマラソン小説『ニューヨーク・シティ・マラソン』、さらに村上春樹がマラソンに挑戦したエッセイ集『走ることについて語るときに僕の語ること』などを愛読されたかもしれない。
さらに直木賞を受賞した赤瀬川隼の野球小説『白球残映』、三島由紀夫がボクサーやボディビルダーの肉体を通して戦後の日本人を描いた『鏡子の家』、その三島が「日本最後の浪漫派作家」と激賞した虫明亜呂無のマラソン小説『海の中道』、打撃の神様・川上哲治を妻の目から書いた『風よりつらき』など、スポーツと縁の深い小説は多い。
現在の若い読者は、あさのあつこの野球小説『バッテリー』、佐藤多佳子の陸上競技小説『一瞬の風になれ』、三浦しをんの箱根駅伝小説『風が強く吹いてくる』等々の青春スポーツ小説を愛読しているのだろうが、そんな最近の作品だけでなく、日本の「スポーツの本」の歴史は、かなり古くまで遡ることができる。
1932年ロサンゼルス五輪に自らボートの選手として出場した経験から、女子陸上選手との恋愛を描いた田中英光の『オリンポスの果実』、『鬼平犯科帳』で有名な池波正太郎も、陸上競技に妖精が現れて三段跳の選手を励ます『緑のオリンピア』という佳品を著し、見事な山岳小説(とも言える)『氷壁』を書いた井上靖は、柔道に打ち込んだ青春時代を描いた自伝的小説『北の海』を残し、関西の作家織田作之助は題名のまま『競馬』の小説を書いた。
そもそも日本のスポーツ小説は、阿部知二の『日独対抗競技』と題した作品に始まる(1930年、実際に行われた陸上競技大会を題材に、選手の肉体に心惹かれる妙齢の婦人の心境を描いた作品)とも言われている。が、それ以前にも武者小路実篤は自伝的短編『友情』(1919年)で卓球に興じる若者たちを描き、島崎藤村は『破戒』(1906年)で明治時代のテニスの様子を描いた。
いや、何より忘れてならないのは夏目漱石で、彼は『吾輩は猫である』で、野球のことを、《擂粉木の大きな奴を以て任意之(ボール)を敵中に発射する仕掛けである》などと面白おかしく書いている。その描写は野球が大好きだった歌人の正岡子規とは逆に少々批判的で、漱石は小説『三四郎』でも東京帝国大学の《運動会》に触れ、運動会は《人に見せべきものではない》と、これまた主人公を通してスポーツを批判している。
「批判」「称賛」いずれにしても、欧米から日本にスポーツが伝播した直後から、多くの日本の作家たちは、スポーツに大いに興味を示していたのだ。そのことは、改めて注目されてもいいだろう。 |