これまで2年間にわたって、24人の「旬の人」と出逢うことができた。
どのかたも、素晴らしい人だった。
トップバッターとして登場していただいた指揮者の佐渡裕さんは、いまでは本誌『ミセス』の常連。「グルメ評論家」として大活躍・・・というのは、やはり失礼が(冗談が)過ぎるだろう。マエストロは、いまやヨーロッパの音楽ファンのあいだで最高の人気を博している。
パリのラムルー管弦楽団の創立120周年記念演奏会では、同管弦楽団が初演したラベルの大傑作『ボレロ』を逆から(後ろから)演奏してみせた。題して『ロレボ』。
この洒落っ気、音楽を愛する素敵なセンスが、パリやミラノの聴衆にウケないわけがない。
2005年に開館する兵庫県芸術館の音楽監督にも就任。そこでは、子供たちのためのオペラや、「出張演奏会」(町内や養老院や幼稚園などでのイベントにオーケストラのメンバーを派遣する)も企画しているという。
高い芸術性と、通俗に堕さない大衆性。世界と地域社会(兵庫県)という両極のステージで活躍するマエストロ。とはいえ、その広範な活躍に驚くことはない。ウィーン・フィルもミラノ・スカラ座も、国際的名声を得ている音楽家や団体はすべて、その名のとおり、地域社会にも根ざしているのだから。
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城之内ミサさんとはテレビのワイドショウのゲストで何度か一緒に出演させていただいた。かつてはシンガー・ソングライター、ミュージカル・タレント、エッセイスト・・・というマルチ・タレントだったミサさんも、いまや作曲家としての地位を確立。
2002年に日本で初演されたオーケストラ作品『空華U』がルーマニアのエネスコ・フィルによって演奏され、9月にはマケドニア・フィルも、武満徹の『雨ぞふる』と並んでミサさんのこの楽曲を選んだ。
そのコンサートの模様は国営放送によって全国中継され、招待されたミサさんは出国のときの空港で、出入国管理官から「素晴らしい曲でした」と感激した口調で話しかけられたという。「銃撃戦で命を落とした友人の魂が、あなたの音楽で救われました」と。
2001年まで政府軍とアルバニア武装集団が銃撃戦を繰り広げていたマケドニアは、いまはNATO軍によって首都のスコービエだけは平穏が保たれている。が、いまも《NATO GO HOME!》という大きな落書きが目につく土地での演奏会に、少々緊張気味だったミサさんも、出入国管理官の言葉に救われたとか。
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メディア(とくにテレビ)の常套句には、ウンザリさせられることが少なくない。たとえば「こだわり」という言葉。誉め言葉として多用されているが、この欄で出逢った方々は、むしろ「こだわりがない」人たちだった。どんな意見やどんなジャンルの出来事にも、耳を傾け、目を向け、吸収しようとする。
ダンサーの勅使河原三郎さんと話をしたときも、インタビュアーである私が、スポーツの話題で逆に数多く質問された。
「日本のスポーツ選手は自分の身体を意識しているんでしょうか?」
――無意識に動くことが最上という考えがあるため、そういう意識は低いですね。
「一流選手でも、そうですか?」
――ええ。一流選手ほど、無意識の領域に達した方が多いですから。でも、こちらから細かく訊き出すと、投手の指先の感覚とか、多くのことを語ってくれます。
「なるほど。気づかせてくれるんだな、スポーツが、身体感覚を・・・」
・・・といった具合。
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ピアニストの及川浩治さんは、「ピアノを弾き続ける人」である。いつもピアノを弾いている。コンサートのときも、楽屋から常にピアノの響きが聞こえてくる。リハーサルが終わったらすぐに、開演直前まで。
「練習したいというわけじゃなく、とにかくピアノを弾きたいというか・・・。指が動いちゃう」(そういえば、勅使河原さんも、「身体が動き出す」といっていた)
「指が動き始めたあとは、自分の指を凄く意識しますけどね」(勅使河原さんも「身体を意識する」と)
動き出す指(身体)と、意識する心。それが、人間なんだな、と納得する以外ない。
最近のコンサートの演目は、グリークとチャイコフスキー。ピアノ協奏曲の大曲を並べた演奏会に「ピアノを弾き続ける人」の(「こだわり」ではなく)心意気が感じられた。
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チェリストの長谷川陽子さんには、個人的に申し訳ないことをした。本誌の取材のあと、錦織健さんのプロデュースによるトーク・コンサートに招かれたのだが、とつぜんの仕事で、行けなくなった。もっとも、私個人としては、申し訳ないと思う以上に、残念だった。
あのチェロの優しい豊かな響きを、間近に聴くというチャンスを逃したのだから。それに、ビートルズからバッハまで、音楽の話を山のように口にできる機会まで失った。「多忙」というのは、まったく罪である。長谷川さんのチェロが聴けなくなるのだから。
とはいえ、長谷川さんのホームページ(http://www.yoko-hasegawa.com/)を開けて驚いた。ソロ・リサイタルに室内楽、ソプラノ歌手の佐藤しのぶさんや塩田美奈子さんとの共演に、オーケストラとの共演(来年1月はプラハ交響楽団とドヴォルザークを演奏)と、「多忙」の極みである。が、長谷川さんの「多忙」は、多くの人々に豊かさとゆとりを与える「多忙」だ。それに較べて小生の「多忙」は・・・。
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市川亀治郎さんには、取材のあと、彼がDJを務める邦楽のラジオ番組に、ゲストとして招かれた。攻守を代え、ジャイアンツ批判からワールドカップまで、オペラから演歌まで、思う存分話させてもらった。が、気がつけば、インタビュアーである亀治郎さんのペース。さすが、若さに似合わない(失礼)相当に強い磁場を感じさせられた。
2002年8月には、京都春秋座で亀治郎さん初の自主公演「第一回亀治郎の会」を見た。出し物は『摂州合邦辻』と『鏡獅子』。素晴らしかった。とりわけ、合邦辻の玉手御前を演じた亀治郎さんの見事なエロチシズムに昂奮させられた。先妻の子である俊徳丸に邪恋を迫り(それは、じつは俊徳丸を救うための偽計だったのだが)、「恋の一念通さでおこうか」と、俊徳丸の許嫁(浅香姫)に向かって言い放つシーンなど、何やら背筋がゾクゾクするほどの迫真の演技だった。
椿姫ともサロメとも異なる日本女性の情念の凄まじさ。この舞台、是非とも再演してください。
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茂山宗彦さんには、取材のあと、結婚式の披露宴に招かれた(2001年12月)。彼が初出演したTVドラマの原作者として、弟の逸平さんからマイクを渡され、川柳を披露。
――命まで かけた女て これかいな
まあ、そんなふうに思うときが、男には必ず訪れるもんで・・・。場内は大爆笑。
東京でのある披露宴では、座が白けて冷や汗をかいたこともあったが、さすがは関西の狂言師集団。金屏風の前の御両人も含めて、危うい冗談を笑い飛ばしてくださった。
その宗彦さんの狂言『ドン・ジョヴァンニ』を見逃したことは、いまも後悔している。その日はワシントン・オペラの公演(ヴォルフ・フェラーリ『スライ』)と重なってしまった。ホセ・カレーラスが熱演した珍しいオペラをけなす気はないが、管楽アンサンブルをバックに、どんな「モーツァルト狂言」になったのか・・・。これも是非とも再演してください。
次は(結婚も含めて)、逸平さんの番。兄貴が『ドン・ジョヴァンニ』なら『フィガロの結婚』あたりは如何?
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亀淵友香さん、お元気ですか? その後、コンサートに足を運べず、まったく申し訳ありません。けっして忘れてるわけと違うんですよ。仕事に疲れたときなんか、亀ちゃんのグループであるVOJA(ヴォイス・オヴ・ジャパン)に聴かせていただいた「お江戸日本橋」や口三味線のスキャットを思い出して、自分を元気づけています。
それに、ロック・バンドのヴォーカルをやってる高2の息子が、昨今の流行を真似、高い声をヒイヒイ出していると、「亀ちゃんの歌を聴いてみんかい。お腹の底から声が出てるやろ」と叱ってます。馬鹿息子が自らの限界に気づいたら、お世話になるかもしれませんが、そのときは、是非ともよろしく。ついでに、人生論も・・・と書くと、叱られるでしょうか?
「あたしは歌を教えてるのに、すぐに人生相談になっちゃうのよね」と笑いながら少々ぼやいておられましたが、それは当然です。なんてったって、「ビッグ・ママ」という呼び名がぴったりの人は、ほかにいないのですから。
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大倉正之助さんの舞台は、取材のあとに2度見せていただいた。『道成寺』も『殺生石』も素晴らしい舞台だったが、なんといっても見事だったのは、最後の大鼓の独奏。
空気を切り裂き、空間を割る。正之助さんの発する「カン」という一音を聴くだけで、「生」(あるいは「死」)というものを感じさせられた。
オートバイのエグゾースト・ノイズ(エンジン音)と共演したり、ネイティヴ・アメリカンの太鼓と共演したり。それに、「史上最大の格闘技」と銘打った「ダイナマイト」(柔道メダリストの吉田がプロ・デビューした格闘技戦)では、国立競技場という広大な空間にたった一人で立ち、オープニング・セレモニーで大鼓の「沈黙する音」を響き渡らせた。
10万人の格闘技ファンの若者たちは、吉田の強さ以上に、「日本の音」の強さに目覚めさせられたに違いない。
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つい最近イタリアへ行く機会があり、テノール歌手の佐野成宏さんにお逢いした。
彼の住んでいるモデナと、彼がレッスンを受けているパルマで、次々と美味しいお店に案内された。チーズ、生ハム、パニーニ、パスタ、トリュフ、それに、オリーヴ油、バルサミコ酢の素晴らしさはもちろん、馬、猪、鹿等々、絶品の数々に舌鼓を打ち続けた。しかも、観光客の立ち寄らない地元の料理店の値段の安さにも感激。佐野さんと顔なじみのオヤジが、特製のパニーニを焼いてくれたり、ほかのテーブルで余ったワインを掻き集めてくれたり(笑)。
ネイティヴのイタリア人といえる佐野さんは、モデナのオペラ劇場で、近年亡くなったアリゴ・ポーラ(パヴァロッティの先生であり、日本のオペラ歌手の指導にも貢献した人物)の追悼コンサートを成功させた。
「パルマやモデナといった地方には、オペラの純粋なファンが多く、ここで成功するのは並大抵のことではないのですよ」
というアリゴ・ポーラ未亡人の言葉を聞くまでもなく、佐野の歌は(それにグルメぶりも)、いまやイタリア人以上にイタリア人そのものである。
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山下洋輔さんには、ラジオ番組や講演会のゲストに招かれた。これが嬉しいのは、すぐ間近で洋輔さんのピアノが聴けることだ。
彼も及川さんと同じで、目の前にピアノがあると弾き始める。弾き始めると、止まらない。延々とインプロヴィゼーション(即興)が続く。これは、コンサートでは聴けない。「関係者」だけの特権である。
以前、洋輔さんの作曲した『ピアノ・コンチェルト』に、日本で最高の作曲賞を贈ろうという話が持ちあがった。ところが、オーケストラのパートの楽譜はあるが、ピアノのパートはほとんどが即興で、きちんとした楽譜がない。楽譜を提出してほしいといわれたので、自分の弾いた音を聴きながら採譜し始めたが、「馬鹿臭くなってやめた」。そのため、作曲賞は与えられなかったという。
何ともつまらない話だが、空間(日本)と時間(時代)を超えている人には仕方ないことなのかもしれない。われわれは、そういう人物がいてくれることに感謝すべきだろう。
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漫才師DonDokoDonは、大失敗をしてしまった。というのは、2001年末の「M1グランプリ」(朝日系テレビ局が主催した若手漫才師ナンバーワンを決めるコンクール)で予選落ちしてしまったのだ。
理由は明白。決勝進出に自信のあったDonDokoDonは、優勝するために最高のネタである『ロボコップ・タクシー』を決勝に残し、別のネタで軽く予選突破を狙った。
その結果、緊張感に欠け、話芸の技術の巧さだけが際立ち、若い視聴者の審査員(とくに大阪の若者たち)の得票を失った。
優勝したのは中川家。彼らのしゃべくり漫才もじつに見事だが、平畠さんの素直なボケと、山口さんの機関銃のような喋り、それに絶妙なパントマイムが決勝に残れなかったのは残念だった。これで、DonDokoDonは「無冠」のまま。どれだけ巧くても、どれだけ人気があっても、そういう人物はいるものだ。そういえば山下洋輔さんも、受賞歴は、なぜか映画音楽だけである。
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落語を聞く機会が少なくなった。NHKのBSでは時々放送されているが、民放が落語を放送することは皆無という状態。浪曲のたどった道を歩んでいるのか・・・と思うと少し寂しい。が、柳家禽太夫さんは、そんなことにめげる人ではないはずである。
なにしろ、真打ち昇進が決まったとき(1998年)に、「まだ下手ですから」といって断ったくらいの硬骨漢である。いまも、円朝の怪談話の上演に向けて、努力しているに違いない。
落語を守ろう・・・などとしたり顔でいうのはやめよう。寄席に行けば、禽太夫がいるのだから。その寄席がなくなりはじめるというのなら、それは、寄席に足を運ぶことの少ないわれわれの責任というべきだろう。
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綾戸智恵さんと山下洋輔さんのジョイント・コンサートをテレビで見た。面白かった。とりわけ、洋輔さんの伴奏で綾戸さんが英語で歌った『港の見える丘』は絶品だった。♪チラリホラリと・・・の部分だけ日本語で、じつに味わい深かった。
綾戸さんが洋輔さんの「乱れ弾き・肘撃ち」を真似たのには、テレビの前で椅子から転げ落ちそうになるくらい大笑いした。
しかし、こんなに素晴らしいコンサートを、どうしてテレビ局は、きちんと放送してくれなかったのか。せっかく盛りあがったところで、タレントや作家の「解説」や「感想」が入った。いや、自分がコンサートに足を運べば、不満をいうこともないのだろう。
が、どうも世の中には二種類の人物がいるような気がしてならない。自分を(たとえば、テレビ番組をつくったのは俺だぞ、と)主張したい人と、自分の愛するもの(たとえば音楽やスポーツ)の素晴らしさを紹介したい人。
本欄の企画に登場していただいた人々は、すべて・・・いうまでもあるまい。
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半年くらい前だったか、新大阪駅のホームでジミー大西さんとばったり出逢った。奥さんでマネージャーの真由美さんも一緒。
「取材では、ほんまにお世話になりました。ありがとうございました」
お世話になったのはこっちのほうなのに、深々と頭を下げられ、恐縮してしまった。
ニューヨークへの美術大学への留学について訊くと、「まだ、いろいろ仕事もあって・・・」と口を濁した。たしかに、仕事と勉強の両立は難しい。画家として売れ、タレントとしても重宝され、生活もあるなかで、「もう一度、基本のデッサンから勉強を」という志を貫くのは並大抵のことではあるまい。
「けど、それは、やらんといかんことですから、やりますよ」といってジミーさんは笑う。
そうなのだ。勉強は、誰にとっても、何歳になっても、「やらんといかんこと」なのだ。
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昨シーズン(2002年)開幕当初の阪神タイガースの快進撃には、すべてのタイガース・ファンが熱狂したことだろう。が、その後は息切れ。
原因は、明白だ。選手が疲れたのである。これまで鍛えられてなかったのか、あるいは、その程度の選手しか揃っていなかったのか、いずれにしろ、緊張感を持ってプレイし続けることに、あまり慣れていなかったのである。
星野監督は、そのくらいのことはお見通しだろう。シーズン終了後、新たにコーチ陣の入れ替えを行い、西本聖投手コーチ、達川バッテリーコーチと、面白い人材を加えた。今後(本誌の発売される頃には)、トレード、ドラフト、フリーエージェントで、戦力補強も行われるに違いない。
とはいえ、ジャイアンツの松井のメジャー宣言で、日本のプロ野球人気の凋落が危惧される。いつまでも「企業野球」で延命できるわけもなく、そのことに気づき、実行力もある星野さんに(人気があるだけの人ではなく!)、一日も早くプロ球界全体の指導者になってほしい、というと、「まだ早い!」と叱られるだろうか?
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2002年ワールドカップの昂奮が幕を閉じたあとは「家の網戸を洗ってばかりいた」という岡田武史さん。「家の網戸って、ほんまにたくさんあるんやぞ」という岡田さんに、監督の誘いは? と訊くと、「ないこともないけど、シーズン途中からやるのはいやだから」。
――途中からでも面白いのでは?
「おれが途中からやったことあるのを、忘れたの? たいへんだったんやから(笑)」
たしかに、日本代表監督のときがそうだった。
環境保護団体のメンバーとして、南アフリカの環境サミットにも参加したり、障害者サッカーのイベントにも参加したり・・・と、充実した短い「浪人生活」を経て、いよいよ「次は優勝をねらえるチームで」といっていたとおり、横浜Fマリノスの監督就任となりそうな気配。逗子の自宅から通えることで、奥様がいちばん喜んでおられるに違いない。
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映画監督の井筒和幸さんは、新作『ゲロッパ』の仕事を進めている。
「玉木さん、いっぺん李鳳宇に会うてみいや。ワシのいちばん信頼してる映画プロデューサーや。彼がおらんと、ワシ、映画撮られへんもん」
という井筒さんの薦めもあってお会いした李鳳宇さんは、なるほど、男が男に惚れるほどの素敵な人物だった。
静かで柔らかい物腰と、穏やかな知性とでもいえばいいのか、話し相手にまったく不快感を感じさせず、自分のペースに巻き込んでしまう。私も、インタビュアーでありながら、彼が創りたいと思っているスポーツ映画(相撲映画?)や音楽映画(「のど自慢U」?)のネタ探しに利用されてしまった(ようにも思える)。
おそらく井筒さんも、李鳳宇さんのてのひらの上で、孫悟空のように楽しんで映画作りに邁進しているに違いない(井筒さん、失礼)。
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格闘技ファンは、ボクシング派とプロレス派に分けることができる。ボクシング派である小生は、どうもプロレスの胡散臭さが好きになれなかった。が、ザ・グレート・サスケさんと会ってから、そんな考えは吹き飛んだ。
サスケさんには、プロレスを愛することは、豊かな心を持つことにほかならない、ということを教えていただいた。
――みちのくプロレスは、40歳定年を決められましたね。
「ええ。プロレスラーというのは自分勝手なところがあって、いつまでもダラダラと続けようというヤツもいるから、短い期間で専念しろという気持ちも込めて決めました」
――だったらサスケさんも40歳で引退?
「いいえ。私は取締役ですから(笑)。それに創業者ですからね。それくらいの特権はあってもいいでしょう(爆)」
これくらい正直なプロレスラーばかりだといいのだが・・・。
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過去24回の連載のなかで、唯一、人物ではなく団体をとりあげたのが、シエナ・ウインド・オーケストラ(SWO)だった。
ブラスの響きは、素晴らしい(団長の郡さんに薦められて、映画『ブラス』をDVDで見て、ますますブラス・バンドの面白さにはまってしまった)。
気取らず、誰もが楽しめる音楽をめざしながら、技術に対しては高いプライドを持ち、最高の演奏をめざす――それがブラス・バンドの基本的スタンスのように思える。
クラシック界では、気取った音楽を粗雑な技術で・・・という演奏会も少なくないが、SWOの演奏会は、痛快なまでに高級である。
佐渡裕の指揮による三枚目のCD録音が待ち遠しい(『演歌メドレー』は録音してくれないかなあ)。
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ジーコ・ジャパンのデビュー戦(対ジャマイカ戦)は、1対1の引き分けに終わった。
ジーコは「手直しは必要だが、悪くなかった」と語り、多くのファン(素人)は「勝てなかったのは残念だけど、面白かった」と評したが、サッカー通のファンは「何をしたいかわからなかった」「作戦がなかった」と批判した。
結果はさておき、評価は予想どおりである。おそらく5対0で勝っていても、同じような評価が口にされたに違いない。
ジーコは選手にサッカーをさせる。監督がサッカーをするのではない、ということをわきまえている。自分で考え、自分で動き、自分でサッカーをし、自分で試合に勝とうとする選手、そんな「自立」した選手が集まったチームを創ろうとしているのだ。
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それは、過去の我々日本人に最も欠けていたことであり、未来の我々日本人にとって最も必要とされるものに違いない。
この欄でとりあげた24人の人々は、そんな私達にとってのお手本であり、これからも、お手本となる人々に出逢いたいと思う。 |