生まれ育った家が京都祇園街の、置屋や料理屋ではなく電器屋という少々微妙な位置だったため、京都の正月を語るには中途半端な立場であることを自覚している。
毎年正月が近づくと大掃除をし、鏡餅と注連縄を飾り、母親は何日もかけて田作や黒豆、雑煮や煮染めを煮込み、除夜の鐘とともに八坂神社へおけら参りに・・・などという「京の正月」とは、まったく無縁。
正月を明るく迎えるための電球や蛍光灯の付け替え、テレビの配達や修理、大掃除用の電気掃除機の売り込み・・・等々、大晦日が近づくと目の回るような忙しい日々がつづき、小学校に通っていたころは、冬休みになると毎日、何やかやと店の用事をいいつけられた。
それでも、てんやわんやの間隙を縫って母親がおせち料理をつくり、元日の朝を迎えると、前日までの喧噪が嘘のように静まりかえるなかで、いつのまにか和卓のうえに重箱がいくつも並んでいた。それを、魔法のような気分でながめたことを、いまも憶えている。
そんな慌ただしい年末と、両親が一年の疲れをとる寝正月という、子供にとっては何の面白みもない「京の正月」にうんざりしていたある年、たしか小学6年のときだったと記憶しているが、店先から「ごめんやすう。おめでとうさんどすう」というか細い声が聞こえた。
その瞬間、三畳の居間で新聞を広げていた父親が、「えらい、早いな」といいながら立ちあがり、寝っ転がって寝間着のままテレビを見ていた私に向かって、「おい、こら、はよ、着替えをせい」といって店先へ出た。
「これは、まあ、えらい、気ぃ使うてもろて、すんまへん。おめでとうさんどす・・・」
店先から響く父親の野太い声を聞いても何のことやらわけのわからないわたしに向かって、母親までが「はよ、こっちきて、着替えをおし」というので、何が何やらわからないまま母親の前へ進むと、あっという間に寝間着を脱がされ、長襦袢、足袋、和服、羽織まで着せられて、背中を叩かれた。
「さ、お送りしてきなはれ」
不承不承店へ出ると、われしのぶの髪に簪を挿し、振り袖とだらりの帯に身を包み、ぽっくりを履いた舞妓さんが立っていた。
「おめでとうさんどすう」
どすう・・・といわれて頭をさげられても何と答えていいかわからず突っ立てるわたしに向かって、父親が、
「お正月の挨拶に扇を持って来てくれはったんやないか。帰り道をお送りしてこい。それが若旦那の仕事や」
なんでオレがワカダンナやねん・・・と思いながらもいわれるままに仕方なく、花見小路にある置屋さんまで舞妓さんと一緒に無言のまま歩いたのは、いま思えば何とも情けない無粋な光景というほかなかった。
道中、観光客や素人カメラマンからレンズを向けられると、肩を丸めて下を向き、やっとの思いで目的地に着いて置屋の女将さんから
「ぼん、御苦労さん。ほんに、おおきに」といわれた途端、踵を返して走り出した。
置屋、御茶屋、料亭などでは毎年のことなのだろうが、電器屋への新年の挨拶は空前絶後。きちんと確認したわけではないが、それは、両親が懇意にしている置屋の女将さんと一緒に仕組んでくれた、私の「元服之儀」だったようである。 |