コラム「ノンジャンル編」
HOMEへ戻る
 
表示文字サイズ選択:
標準
拡大
掲載日2013-04-10

この原稿は、4月8日にテンプル大学日本校麻布学舎で開かれた「日本の体罰」に関するパネル・ディスカッションでの冒頭スピーチのために作成したものです。パネリストは、スタンフォード大学准教授で、京都大学「白眉センター」http://www.hakubi.kyoto-u.ac.jp/ で、助教としても活動しておられるアーロン・ミラー氏と、日本の野球について『菊とバット』や『和をもって日本となす』など、数多くの著作があるロバート・ホワイティング氏と小生の3人。ミラー氏は、近々アメリカで『Discourses of Discipline 〜 An Anthropology of Corporal Punishment in Japan's Schools and Sports』という日本の体罰に関する興味深い研究をまとめた一冊を上梓される予定です。マスコミ的には、早くも「過去のもの」になりつつある(東京五輪招致に影響するため?)「体罰問題」ですが、絶対に風化させてはならない「大問題」として、ノンジャンルとして“蔵出し”しておきます。“蔵出しスポーツ”の「民主主義がスポーツを生んだ」とともに御一読下さい(尚、同じ原稿をNews-Logにもアップしています)。

日本体罰論〜いま改めて考える「スポーツ」と「教育」と「体罰」

日本のスポーツ界と、学校体育が、いま「体罰」という「暴力問題」で大きく揺れています。

 この問題について、文部科学省の下村博文大臣は、「日本のスポーツ史上最大の危機」と捉え、「スポーツの指導から暴力を根絶する」と宣言しました。

 しかし、その言葉通りに体罰という名の暴力が根絶されるかどうか、少々疑わしい……と言わざるを得ません。

 なぜなら、そこには、日本のスポーツ界や体育教育界に根ざす、甚だ難しい問題が横たわっていると思われるからです。

 では、日本のスポーツ界や体育教育の世界に、なぜ「体罰」がなぜ存在するのでしょう?

 私は、次の4つの理由が考えられると思います。

 一つは、西洋からの輸入文化であるスポーツに対する、日本人の無理解。

 二つ目は、その無理解と、大学の縦社会のなかから生まれた「体育会」という組織の存在。

 三つ目は、第二次世界大戦における主に陸軍での上官の暴力の蔓延と、それが戦後社会、とくにスポーツの世界に浸透したこと。

 四つ目は、80年代から90年代にかけて、日本の主に公立中学校が、学級崩壊という荒んだ状況に見舞われ、それを力で抑えようとした各都道府県の教育委員会が、体育大学の体育会系で育った体育教師を学校に導入したことです。

 順番に説明しましょう。まず、スポーツに対する、日本人の無理解について、です。

 今年になって、大阪桜宮高校のバスケットボール部や、女子柔道のオリンピック選手に対する「体罰問題」がマスコミで大きく取りあげられたとき、私は、それらの事件対する感想を求めに来たテレビ局の取材クルーや、電話をかけてきた記者に対して、逆に質問を投げかけ、ちょっとしたアンケートを試みました。

  それは、2つの質問でした。一つは、「あなたは、バレーボールというスポーツを知ってますか?」……そして、もう一つは、「あなたは、バレーボールのバレーとは、どういう意味か、知っていますか?」

 その結果、全員が、「バレーボールを知ってる」と答えましたが、バレーという言葉の意味を知ってる人は、たった一人もいませんでした。

 この点を強調しておきますが、今年の2月と3月に出逢ったマスコミ関係者約20人にプラスして、居酒屋やパーティで出逢った友人など10人以上、合計約30人くらいの小生の周辺の日本人……おそらく、真っ当な大人のなかに、「バレーボール」のバレーという意味を知っている人物は、一人もいなかったのです。

 なかには、踊るようにボールを空中に舞わせるから、と、チャイコフスキーの『白鳥の湖』などを表す言葉だと答えた人もいました。

 たしかに、日本語では、volley ballではなく、ballet ballと発音します。

 また、バレーボールのバレーの意味を「谷」Valleyと答えた人もいました。

 選手と選手の間の「谷間」にボールを落とさないようにするボールゲームというわけです。

 これは、ある有名な朝のテレビ番組の有名な司会者が、本番中に私の質問に答えた回答でした。

 その有名な司会者が、冗談半分でそう答えたのか、本当にそう思っていたのかははっきりしませんが、大学のバレーボール部出身の新聞記者のなかにも、「谷」と答えた人が一人いました。

 また、1週間後にそのテレビ番組に一緒に出演した下村文科大臣に、楽屋で同じ質問をしてみると、彼も、バレーボールのバレーという言葉の意味を知りませんでした。

 そのとき同じ番組出た柔道の元金メダリストで、国会議員になった女性も……あえて名前は言いませんが……知りませんでした。

 元バレーボールの選手としてインターハイ(全国高校選手権)に出場したことのあるNHKのディレクターも、バレーの意味を知りませんでした。

 つまり、ほとんどの日本人が、バレーボールのバレーがVOLLEYのことであり、テニスのボレーや、サッカーのボレーシュートと同じ言葉であることを、知らないのです。

 そして、知らなくても、平気なのです。それは、ある意味で、当然のことと言えるかもしれません。

 バレーの言葉の意味など知らなくても、バレーボールがどんなふうにプレイされるスポーツであるかをわかっていれば、去年のロンドン・オリンピックで日本の女子チームが銅メダルを獲得したことは大いに喜ぶことができます。

 1964年の東京オリンピックや、1976年のモントリオール大会で金メダルを獲得したことも、さらに日本の男子バレーボール・チームが、1972年のミュンヘン・オリンピックで金メダルに輝いたことも別に、「バレー」という言葉の意味とは無関係とも言えます。

 ほとんどの日本人は、バレーボールを中学や高校時代に体育の授業で経験したはずですが、そのとき、「バレー」という言葉が、本来はどのような意味の英語で、どのように日本語的に訛ったのか、といったことは、いっさい学びません。

 また、バレーボールが19世紀末のアメリカで生まれたボールゲームだとは教えられないまま、ソビエト連邦時代のロシアか、東ヨーロッパで生まれたスポーツだと思ってる人も、大勢います。

 それは私と同世代の高齢者に多く、東京オリンピックで日本の女子チームが優勝して以来、長い間、日本の強敵がソビエトと東ヨーロッパの国々で、アメリカを初めとする西側諸国にバレーボールの強い国が現れなかったから、ともいえます。

 つまり多くの日本人は、バレーボールをプレイしたことがあり、どうなればどっちのチームが勝ち、どんな方法や作戦で闘い、どのようなボールゲームであるかということは知っていても、バレーという言葉の意味や、バレーボールというスポーツの生まれた経緯や、その歴史などは、まったく知識として持っていないのです。

 学校の体育の時間にバレーボールを教える体育の先生が、そういったことを知っているかどうかは調べたことがありませんが、甚だ疑わしいことですし、先生が生徒に教えてくれることはほとんどありません。

 それに、生徒が疑問に思って、「バレーボールってどういう意味ですか?」と、先生に質問することもないのです。

 それは、おそらく日本の体育の先生にとっては、喜ぶべきことと言えるでしょうが、そのような質問を口にする生徒は、いないのではなく、禁じられている、という言い方をしたほうがいいかもしれません。

 というのは、私の中学高校時代の体育の授業もそうでしたが、体育の先生が、常に口癖のように繰り返し口にしていた言葉で、いまも私が憶えている言葉があります。それは、「理屈を言うな。身体を動かせ」というものでした。

 理屈を言わず、身体を動かして、そして、試合に勝つ……そう教える体育の教師は、バレーボールとは、いつ、どこで、創られて、どのようなスポーツなのか……といった「理屈」はいっさい教えてくれません。

 同様に、ベースボールは、いつ、どこで、どのようにして誕生したボールゲームなのか、バスケットボールについても、サッカーやラグビーについても、体育の先生は、どのようにプレイするのか、といったルールや身体の動きは教えてくれますが、そのスポーツに関する知識は教えてくれません。

 ちなみに、ヨーロッパや多くの国々で、フットボールと呼ばれているボールゲームが、なぜアメリカや日本ではサッカーと呼ばれているのか、サッカーとはどういう意味なのか……ということを知っている日本人は、ほぼ皆無といえるでしょう。

 その回答を知りたい人がおられれば、ウィキペディアを見ていただくことにして、ここでは時間を節約して先に進むことにしますが……。

 サッカーと言う言葉だけでなく、スポーツには、ほんの少し考えただけでも、答えのわからない疑問が、数え切れないほど存在します。

 たとえば、テニスのスコアでゼロのことを何故ラブというのか……、15,30のあとのポイントの数え方が、何故45ではなく、40なのか……、また、野球で、左投手のことを、どうして「南の手のひら=サウスポー」と呼ぶのか……。

 サッカーやラグビーでは、オフサイド……つまり基本的にボールよりも前で自由にプレイすることを禁ずるルールが存在しますが、なぜオフサイドが反則とされるようになったのか……反対に、バスケットボールではオフサイドのルールは存在しませんが、なぜボールを持って3歩以上動いてはいけないのか……。

 ……などなど、日本の体育の授業では、それらの疑問に対する回答は、いっさい教えてくれません。理屈は抜きにして、体育の先生は、つべこべ言わずに、ルールを守れ!としか言いません。

 さらに、走れ!ダッシュ!グラウンド3周!腕立て伏せ!スクワット!腹筋!……などと生徒に命令しますが、そのような肉体訓練も、なぜそれが必要で、何のために行うのか、という「理屈」の説明はなく、そこには、身体を鍛えることはいいことであるという前提があるだけです。

 このような体育教育の積み重ねの結果、強いスポーツ選手に育った日本のスポーツマンや、スポーツの指導者や関係者は、スポーツの理論……ルールの成り立ちや、科学的な練習方法や、チームの運営などについて、深く考えることが疎くなります。

 その結果、国際的なスポーツ団体のスポーツ・ルールを改正する会議や、イベント運営に関する会議などで、日本のスポーツ関係者は、ほとんど建設的な発言をすることができないような状態が続き、国際的なスポーツ団体の理事などの要職に就くこともできなくなっているのが実状です。

 それと同時に、理屈抜きの体育教育……言葉での説明を不要のものと考える体育は、体罰の一歩手前の状態、体罰を生み出す温床とも言えるでしょう。

 「理屈を言うな、身体で覚えろ」……という言葉が、スポーツに対する理解を否定し、体罰を肯定する出発点になっているとも思えます。

 そのようなスポーツに対する無理解のなかで、バレーボールのバレーの意味や、サッカーという言葉の意味を知らないこと以上に、最も大きな問題は、「スポーツ」という意味に対する無理解です。

 「スポーツとは何か?」と訊かれて、答えられる日本人は、大学で「スポーツ学」や「スポーツの歴史」を教えている教授以外、ほとんど存在しないといっていいでしょう。

 スポーツは、古代ギリシアや近代イギリスで生まれ、すなわち社会のリーダーを選挙で選ぶ民主主義と深い関係があり、戦争や闘いによって王様や独裁者が暴力的に支配者となる社会では、スポーツは生まれないし、発展しない、という程度の常識が広まってほしいと私は考えますが……せめて、スポーツと体育とは別の種類のものであり、その言葉の混同だけでも改めてほしいと思っています。

 日本では、Health Sports dayと英語で呼ぶ国民の祝日を「体育の日」と呼んでいます。National Sports Festivalも「国民体育大会」です。gymnasiumは「体育館」で、Athletic meetは、「体育大会」です。そして英語では、Nippon Sport Science Universityと呼ばれている大学は、「日本体育大学」「日体大」のことです。

 参考までに、日本女子体育大学の英語名も紹介しておきますが、こちらはJapan Women's College of Physical Educationで、日本ではスポーツウーマンの方がスポーツマンよりも世界で活躍しているのは、この正直さが原因かもしれません。

 それはともかく、日本では、フィジカル・エデュケーションとスポーツの混同が、著しいと言わざるを得ません。

 ここで体育とスポーツの違いを述べることは省略しますが、明治時代に最初PLAYやGAMEを意味する「遊技」が、そのうちEXERCIZEを意味する「運動」と訳されるようになり、やがて「体育」という訳語が定着した背景には、おそらく、日清、日露の戦争を経て軍国主義が台頭してきた歴史が関係していることでしょう。

 楽しくスポーツをプレイするのではなく、身体を鍛えて強い兵隊を作ることが、スポーツを利用した体育の目的となったのです。

 そして、大学のなかのスポーツクラブも「体育会」と呼ばれるようになり、日本の軍隊、主に陸軍のなかの上下関係、すなわち上官の暴力による支配が、体育会内部の上下関係、先輩と後輩の関係にも蔓延るようになり、暴力が「体罰」として定着するようになったと私は考えています。

 第二次世界大戦後の新しい教育を推進したマッカーサー将軍とGHQは、学校教育から軍事教練を排除し、さらに柔道、剣道、薙刀、銃剣術などの武術も排除し、スポーツを持ち込もうとしました。

 大学教育の教養課程のなかにもスポーツを取り入れ、数多くの体育教師を作るために、筆記試験は少々点数が低くても、スポーツを教えることのできる教師を大学で育てました。

 マッカーサー将軍とGHQの幹部は、戦後日本の民主主義を育てるためには、民主主義のなかで、非暴力主義のなかで生まれたスポーツというもの……つまり、ルールを自分たちで創り、そのルールをみんなで守るというスポーツを通して、民主主義を浸透させることができる、と考えたわけです。

 その考え自体は間違ったものではありませんでしたが、日本の大学で教えられるスポーツは、じつは、みんなで意見を出し合う民主主義的なスポーツではなく、上意下達で先生や先輩から言われる命令は、どんな理不尽なことでも受け入れなければならず、その命令に反すれば体罰を伴う軍隊的な「体育会系組織による体育」だったのです。

 1945年8月15日の日本の敗戦から、わずか3か月後の11月23日に、GHQは神宮球場でプロ野球の東西対抗戦を行うことを許可しています。

 そのとき、戦争に生き残って試合に出場した別所毅彦投手は、GHQの幹部に“What is democracy?”と訊いたということが、鈴木明氏の本に書かれています。その答えは、“Democracy is Baseball”だったそうです。

 しかし、今も、日本の高校野球を見ればわかるように、少なくとも日本の学校で行われている野球は、プレイしている選手が自分の考えで動く民主主義的なスポーツではなく、監督のサインという絶対的な命令通りに動く体育でしかないのです。

 最近の事情はよく知りませんが、15年くらい前までの高校野球に対する取材経験で語るなら、私自身も、監督の生徒に対する激しい「体罰」……殴る蹴る、ボールを身体に当てるなどの暴力を何度も目撃しました。

 それらの監督のなかには、テレビや新聞によって「名監督」と評価されていた人物もいました。

 このような学校でのスポーツや体育教育における「体罰」は、戦争と軍隊の記憶が遠ざかるとともに薄れることはなかったようです。

 というのは、よく言われることですが、体罰を通してスポーツを学んだ者は、やはり体罰でしか教えることができないからです。

 そうして体罰によるスポーツ教育、体育教育が延々と受け継がれるなか、その体罰がエスカレートすると同時に、1980年代から1990年代にかけて、イジメや学級崩壊という言葉が広がるのと足並みを揃えるようにして、体育以外の一般の教育現場にも広がってしまいます。

 それは、主として中学生による暴力的な反抗で、教育現場が荒んだとき、それを「力」で抑えようとした学校が、体育の先生……もっと正確に言うなら、体育会系出身の体罰で育った先生を多く採用しました。

 その結果、体罰という名の暴力は急激にエスカレートし、激しさを増します。

 大阪桜宮高校のバスケットボール部の顧問が、キャプテンを何十発も殴った……という信じられない暴力のエスカレートも、柔道の指導者が女子の五輪候補選手の首を絞め、その女子選手が嫌う虫の屍骸を顔に近づけた……などという、まったく信じられない行為に及んだのも、80〜90年代の学級崩壊と体罰容認という考え方の招いた結果ではないか、と私は推測しています。

 そして現在、体罰という名の酷い暴力が表沙汰となり、スポーツと体育の現場から、それを一切取り除こうという声も出るようになりました。

 長い間、体罰が日常化していた社会のなかで、いますぐ体罰をすべてなくすことは難しいという人もいます。体罰を禁止したら、確実に日本のスポーツはレベルが下がる、と自分の無知をさらけ出すような意見を恥ずかしげもなく堂々とテレビで口にした元スポーツマンもいます。

 しかし、現状は、体罰という名の暴力がエスカレートして限界を超えた結果、多くの日本人がやっとスポーツの正しい方向性に気付いた、と言えるかもしれません。一種の弁証法的な帰結です。

 たとえは、よくないかもしれませんが、私は、3年前に煙草をやめました。それまでは、1日にロングピースを何箱も吸う愛煙家でしたが、ピタリとやめました。理由は簡単で、脳出血を起こして1か月ほど入院したからです。

 その間に、常習性をもたらすニコチンの成分は、血液のなかから消え、煙草を吸いたいとは思わなくなりました。だから、煙草をやめようと思ってるけどやめられない人には、私は、こう言うことにしています。煙草をもっと吸いなさい。いっぱい吸って脳出血を起こしたら、やめることができますから。

 幸い私は、大きな後遺症もなく、今は元気に仕事に復帰しています。日本の体育の世界、スポーツの世界も、今は脳出血を起こして、入院しているような状態です。

 いま中学生や高校生のバスケットボールの試合は、非常に静かななかで行われているそうです。というのは、体育教師の「ばかやろー!」「やめてしまえー!」といった怒鳴り声が消えたからです。日本の諺に、「羮に懲りて膾を吹く」という言葉がありますが、いまはそんな状態のようです。

 さて、日本のスポーツや体育が、どんな指導法に落ち着くのか……体罰は、もちろん完全になくし、スポーツという素晴らしい文化に対する理解を深めないといけないと思います。

 しかし、一言付け加えておきますと、私は、脳出血したあと、3か月後くらいから、お酒は飲むようになりました。もちろん、煙草は絶対にダメだけど、お酒は少しくらいならいいから……という医者の言葉に、喜んで従った結果です。

 私の「体罰」に関する冒頭スピーチは、このへんで一旦止めておきましょう。ご静聴ありがとうございました。

(テンプル大学「体罰に関するパネル・ディスカッション」より)

▲PAGE TOP
バックナンバー


蔵出し新着コラム NEW!!

人間は「走る」より「歩く」で進化する?

自動車レースは、安全運転を競う競走!?

「スポーツゴジラ」連載「走」第2回/未来の「走り方」は過去のなかにある!?

「スポーツゴジラ」新連載「走」第1回/「速さ」は産業革命以後の価値!?」

スポーツとは何か? ――「スポーツそのもの」の魅力を求めて

「大谷翔平報道」の洪水によって洗い流されるプロ野球の「負の歴史」を忘れるな!

衝撃の文春砲! 「五輪汚職疑惑」裁判に「スポーツ利権の帝王」は召喚されるか!?

パリ五輪/真価が問われる「平和の祭典」原点回帰へ理想論を愚直に掲げよ

スポーツによる「社会革命!」川淵三郎氏文化勲章受賞の意味は大きい

川淵氏の文化勲章受章が持つ意味/組織創りの「社会革命」評価

「アレ」を喜べない古い虎ファンの嘆き/阪神タイガースは、ただ勝てばいいのか!?

ちくま文庫編集部 K 様  from 玉木正之

日本スポーツ界よ!本質から目を背けず改革から逃げるな!

五輪談合ビジネスの崩壊/メディアの沈黙は不正共犯の証だ!

メディアとスポーツの関係刷新/アスリートはメディアを使った新しいカタチに逆転すべき!

日本のスポーツ界改革/未来を担うのは過去の利権と無縁の女性たちだ

日本のスポーツとアスリートを堕落させた戦犯は誰だ!?

「メディア」としてのアリを描ききった快著/『評伝モハメド・アリ』書評

2020東京オリンピック スポーツを食い物にした五輪と電通

特別対談:小林信也vs玉木正之/高校野球甲子園大会を廃止せよ!

夏の高校野球甲子園大会は、今年を最後に抜本的に改革せよ!

大甲子園の想ひ出

「速さ」は産業革命以後の価値!?

「オリンピック休戦決議」を破ったロシアに対してIOの取るべき態度は!?

五輪が《オワコン》であることを明快に証明した記録/本間龍・著『東京五輪の大罪: 政府・電通・メディア・IOC』ちくま新書

今年の3冊『生物はなぜ死ぬのか』『亡国の東京オリンピック』『剣道の未来』

カオスからコスモスへ−−若者たちの形造る「小宇宙」=矢崎良一『松坂世代』河出文庫〈解説〉

日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(9)「大阪タイガース來る」 / 日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(10)遠藤忠「長嶋茂雄ヘルメット飛ばす」

日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(7)ベン・シャーン”National Patime" / 日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(8)ナット・ファイン『The Babe Bows Out』

日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(5)hoda Shrball「Casey Stengel」 / 日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(6)「Baseball scene of Batter,Catcherand Umpire」

日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(3)玉井力三「ジョー・ディマジオ親子とヤンキースタジアム」/同(4)「ワールドシリーズのオフィシャル・プログラム1988」

日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(1)ニール・ライファー「シェイ・スタジアム」/同(2)「The American National Game of Base Ball.」

スポーツお薦めの一本!一冊!/『けんかえれじい』と『老人と海』

愛情あふれる「野球の素人」奮戦記/清武英利『サラリーマン球団社長』文藝春秋

戦前日本野球史の誤りを正す/坂本邦夫・著『紀元2600年満州リーグ 帝国日本とプロ野球』岩波書店

スポーツそのものを描いた小説〜ヘミングウェイ『老人の海』の凄さ、素晴らしさ!

六道珍皇寺・閻魔大王像――幼い頃に恐怖心を刻まれた閻魔様との再会

まえがき――今こそ「スポーツとは何か?」を考え直してみよう!

「スポーツ・ブーム」「マッチョ・ブーム」は危険ではないか?

現在の「スポーツ・ブーム」「マッチョ・ブーム」は危険ではないか?

東京五輪の遺産(レガシー)はなにか? スポーツの根源問う好機に

市川崑監督の映画1964年の『東京オリンピック』は、スポーツの素晴らしさを教えてくれた史上最高のスポーツ映画。はたして河瀬直美作品は、どんなオリンピック映画になるのか?

『彼らの奇蹟 傑作スポーツ・アンソロジー』解説

英語は難しい? 外国語とスポーツの不思議な関係

それはわずか50年前の出来事 高速道路と新幹線が初めて出現した時代の興奮

こころの玉手箱第3回「一本足打法のブルドッグ 旧ソ連、不思議な国家とその時代」

こころの玉手箱第2回「母がくれた小さな薬缶 常に一緒、激励の手紙にはマイッタ」

こころの玉手箱第1回「父の飯盒と水筒と勲章」

『ふたつのオリンピック東京1964/2020』訳者あとがき――そこにはただ風がふいているだけ……

猛暑の高校野球 改革せよ!試験期間中の予選もおかしい

政治経済問題は第1回大会から。オリンピックに未来はあるか?/ジュールズ・ボイコフ[著]中島由華[訳]『オリンピック秘史−120年の覇権と利権』早川書房

いまも京都はアンダー・コンストラクション/島田裕巳『京都がなぜいちばんなのか』ちくま新書

スポーツに映し出されたアメリカという国の本質/鈴木透・著『スポーツ国家アメリカ 民主主義と巨大ビジネスのはざまで』中公新書

スポーツ教養主義を押し進めたメディアの興亡/佐藤彰宣『スポーツ雑誌のメディア史 ベースボール・マガジン社と大衆教養主義』勉誠出版(3200円+税)

大相撲は日本文化の精華――それを「保守」することこそスポーツ(格闘技)以上の大相撲の役割なのだ

愛煙家には理解できない煙草の話 「卒煙」して初めてわかる元ヘビースモーカーの悩み

モンゴル会の実態把握を

スタジアムとは都市の文化の核となる存在である/後藤健生・著『世界スタジアム物語 競技場の誕生と紡がれる記憶』ミネルヴァ書房

2020東京五輪は環境問題も無為無策?

子規の野球への視点――それは、スポーツライターの原点

銃剣道はスポーツか? そのうちに、まさか竹槍も?

先人たちの語る日本マラソン低迷の理由/折山淑美『日本のマラソンはなぜダメになったのか−日本記録を更新した7人の侍の声を聞け!』文藝春秋社

元ボクサーたちの痛快な再起:沢木耕太郎『春に散る』朝日新聞出版・書評

2016年は没後400年〜シェイクスピアは未来永劫生き続ける超人(スーパースター)である

無駄でなかった小池提起〜しかし、問題はまだ山積

半歩遅れの読書術第5回/五輪とは何か 文明化を表象する平和運動

半歩遅れの読書術・第4回/五輪で何を撮るか ドイツの女性監督と市川崑

半歩遅れの読書術・第3回/ユーロ・サッカーとシェイクスピア 原作者の意図を超える面白さ

半歩遅れの読書術・第2回/モハメド・アリと南部麒六 悲歌の似合う雄々しい人生

半歩遅れの読書術・第1回/ドナルド・キーンとイチロー 伝統の魅力思い出す

猫ブームの日本で好かれている猫〜それはドラえもんのような「犬的な猫」?

大相撲こそ江戸の華。昔も、今も、都の華。

大相撲は「お国自慢」の文化――琴奨菊の優勝を日本人として喜ぶ

大学スポーツを考える

大相撲は日本の国技――と同時に、ユーラシア大陸全体に広がる格闘技文化なのだ

スポーツライターを引退しました

エンブレムがプロブレム〜創作とは過去を超えること

NHK視点・論点 「体育からスポーツへの変化を」

槇文彦グループの提言:低いキールアーチ構造がコスト高・長工期の原因である。

『スポーツ・アンソロジー彼らの奇蹟』(新潮文庫)は、何故か「死」と関わりを持つ作品が多くなってしまった。

スポーツと文学第5回/「人間ドラマ」礼讃の気風/競技描いた名作も多く

スポーツと文学第4回/運動会 躍動するパワー/壮士も近代女性も熱中

スポーツと文学第3回/思想を宿し物語る肉体/20世紀 覆る「精神優位」

スポーツと文学第2回/近代民主主義と武道/国際化と反時代2つの道

スポーツと文学第1回/古典に描かれた競技・日本人の個人技好みを映す?

日本の作家はスポーツが好き!?/数多い「日本のスポーツの本」に改めて注目しよう!

夏の甲子園・投手の酷使……最大の問題点は?

世界最強のブラジル・サッカーは、史上最悪の敗北からスタートを切った!(沢田啓明『マラカナンの悲劇 世界サッカー史上最大の敗北』新潮社)

京がたり 俺の祇園 いやで捨てたけど、好き

スポーツの正しい発展のために指導者ライセンス制度の確立を!

東京の新しい歌舞伎座が完成オープン/歌舞伎はナンデモアリの最高に楽しい大衆芸能ナノダ

あけましておめでとうございます。

スポーツする身体 十選/第9回スポーツする身体 パブロ・ピカソ『マタドールの死』/第10回スポーツする身体 ベン・シャーン『ハンド・ボール』

スポーツする身体 十選/第7回スポーツする身体エドガー・ドガ『観覧席前の競走馬』/第8回スポーツする身体ルネ・マグリット『迷える騎手』

スポーツする身体 十選/第5回ボナール『ボクサー』/第6回モネ『アルジャントレイユのレガッタ』

スポーツする身体 十選/第3回ディスコボロス(円盤を投げる人)/第4回クールベ『レスラー』

スポーツする身体 十選/第1回アルジェリアの洞窟壁画/第2回マチス『ダンス』

東京オリンピック〜戦後日本のひとつの美しい到達点

「黒人選手」は本当に速くて強いのか!?〜スポーツと五輪の過去・現在・未来

「美」で誘惑した女の一生――ライナー・ローター著『レーニ・リーフェンシュタール 美の誘惑者』(ライナー・ローター/瀬川裕司訳/青土社・2,800円)

プロ野球ビジネスの未来〜球界全体の新戦略を

日本体罰論〜いま改めて考える「スポーツ」と「教育」と「体罰」

東京の新しい歌舞伎座が完成オープン/歌舞伎はナンデモアリの最高に楽しい大衆芸能ナノダ

六道珍皇寺・閻魔大王像――幼い頃に恐怖心を刻まれた閻魔様との再会

大河ドラマは世に連れ、家族は大河ドラマに連れ……

京都駅の思い出

スポーツ振興くじ(toto)は「ギャンブル」や「金集め」だけでは語れない!

あなたは知ってる!? スポーツの疑問の数々…

五輪のあり方を考える〜ネット中継や交流も…/ロンドン・オリンピックはシェイクスピアに注目!?

「猫もするなり球遊び」スポーツは、世界(オリンピック)と地域社会(クラブ)をつなげる

「猫もするなり球遊び」オリンピックは人類の祭典!日本人にとっては?

二代目市川亀治郎さん(現・四代目市川猿之助)――伝統とは「変える力」

大学の教壇に立って……〜ジャーナリズムとアカデミズム

ランニングの歴史と魅力を伝える〜トル・ゴタス著『なぜ人は走るのか:ランニングの人類史』(筑摩書房)

読者からの質問への回答

『マーラーの交響曲』発売記念エッセイ〜いつか私の時代が来る、とマーラーは言った。

祇園町の電器屋の初荷

権力志向者がジャーナリストになる危険性――魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社

かつてラグビーは日本中を湧かせた!(上岡伸雄・著『釜石ラグビー栄光の日々松尾雄治とくろがねのラガーたち』中央公論社)

日本文化「大相撲」は「スポーツ」なのか?

オペラ(音楽)とスポーツの濃密な関係

塾や予備校は学校より大事?

「新道」という名前が消える寂しさ

孤立化、個別化する社会のあり方に警告(杉本厚夫『「かくれんぼ」ができない子どもたち』ミネルヴァ書房)

女心・男心…人間を描くため、肉体を描ききった本物の作家(虫明亜呂無『パスキンの女たち』清流出版)

松本修『「お笑い」日本語革命』(新潮社)書評「みたいな。」の元祖はとんねるずか!?

犬好き男の愛猫記

大魔神を巡る見事な「知的探検の旅」/小野俊太郎・著『大魔神の精神史』(角川ONEテーマ21)

企業の「所有物」と化したスポーツ・文化団体

スポーツ番組作りの「プロ」になっていただくために

「スポーツ放送はどうあるべきか?」を考える前に、考えるべきこと

書評『茶の世界史』/茶が映し出す過去の世界史&茶が匂わせる未来社会

思い出すのは仕事をしている姿

脳出血と恐怖心

現代社会の「怪物性」を説き明かす見事な一冊〜小野俊太郎・著『フランケンシュタイン・コンプレックス 人間は、いつ怪物になるのか?』青草書房

「劣等感・コンプレックス」とは、本当はどんなものなのか

あけましておめでとうございます

脳出血から復活できた理由(わけ)

「何か」を表現しようとする究極の本能

天職人〜あとがき

そばは京都にかぎる

総選挙の行方とスポーツ界

小泉首相の「趣味」と「文化政策」

行きつけの店は恋人に似てる?

アイ・ラヴ・サッポロ!アイ・ラヴ・ホッカイドウ!

日本文化の「型」と「カタヤブリ」と「カタナシ」の関係を横綱・朝青龍の「カタチ」から読み解く。

いま、ベネズエラで起きている「大事件」

「文化」の持つ本当の力

あけましておめでとうございます

煩悩の世界史〜『要約世界文学全集』(木原武一・著/新潮社)

「夢かうつつか…」逝った者へ…、残された者は…

オリンピックはスポーツではない

「天才」の多くなった世の中

『二十五時』との数奇な出逢い

わたしは猫になりたい。

紅旗征戎不有吾事 金は天下の周りの持ちもの…

アメリカ珍道中〜This is American Way

仕事人間の弁明

変わらないことの素晴らしさ

<二人袴>

女人狂言『茶壺 de Hermes』

私の行きつけの店・好きな店

島田雅彦vs玉木正之 ドイツW杯特別対談「選手を自由にさせたら高校生になっちゃった」

あけましておめでとうございます

個人的パラダイム・シフトに導かれた三冊

ゴシック・万博・ストリップ・吉本…を読む

現代と未来の世界を考えるうえでの「真の世界史情報」(井野瀬久美恵・著『興亡の世界史16 大英帝国という経験』)

300万ヒット記念特集・蔵出しの蔵出しコラム第3弾!

300万ヒット記念特集・蔵出しの蔵出しコラム第2弾!

300万ヒット記念特集・蔵出しの蔵出しコラム第1弾!

知識や情報なんて、ないほうがいい

現代日本人必読の一冊

タクシーと自家用車の違い

「天才」って何? ――まえがきにかえて

「ある女の一生」

「戦争映画」が好きな理由(わけ)

とかく京都のスポーツマンは……

道はどれほど重要なものか

祇園町の「生活」=「文化」

地獄八景万之丞乃戯(じごくばっけいまんのじょうのたわむれ)

わたしは猫になりたい。

読書日記〜稲垣足穂から梅原猛まで

アッピア街道に乾杯(ブリンディシ)!

「質より量」の読書は「質」が残る?

スポーツは究極の道楽?

久しぶりに「銀ブラ」でもするか・・・

行きつけの店は恋人に似てる?

権力志向者がジャーナリストになる危険性――魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社

ロジャー・パルバース著『旅する帽子』生身のラフカディオ・ハーンが幻想のなかに甦る

作者の名前も作品の題名も消えるほどのノンフィクションの名作〜デイビッド・レムニック著『モハメド・アリ』

戦争と軍隊の歴史

スポーツと音楽を通して出逢ったトリュフ

スポーツ・ジャーナリストにはスポーツよりも大事なものがある?

お薦めの本(2003年夏〜2004年春)

日本人は元気だ――24人の元気な日本人

美しい最後の素晴らしさ

「若い国」アメリカ

京都人の溜息

経済には倫理が必要である

オススメ脳味噌のマッサージ

吉本興業は匈奴である『わらわしたい――竹中版正調よしもと林正之助伝』竹中功・著/河出書房新社

虚実の皮膜――『イッセー尾形の都市カタログPART2』イッセー尾形/森田祐三・共著 早川書房・刊

胡散臭さ礼賛――竹内久美子『賭博と国家と男と女』(日本経済新聞社)

衝撃的な笑劇――レイ・クーニー『笑劇集』劇書房

翻訳って何?――『翻訳史のプロムナード』(辻由美・著/みすず書房・刊)

脳細胞の組み替え――『世界史の誕生』岡田英弘・著/筑摩書房(現・ちくま文庫)

長老の話――堀田善衛・著『めぐりあいし人びと』を読んで

古典の楽しさ

ドリトル先生 不思議な本

京都が消える

嬉しいこと――喜びは常に過去のもの

野村万之丞 ラジカルな伝統継承者(2)

野村万之丞 ラジカルな伝統継承者(1)

事典・辞典・字典・ジテンする楽しみ(第5回=最終回)

事典・辞典・字典・ジテンする楽しみ(第4回)

事典・辞典・字典・ジテンする楽しみ(第3回)

事典・辞典・字典・ジテンする楽しみ(第2回)

事典・辞典・字典・ジテンする楽しみ(第1回)

先達はあらまほしきか?

旅の衣は篠懸(すずかけ)の

パチンコと飢餓海峡

最近の映画はつまらない?いや、やっぱり、映画はおもしろい?

神道、天皇、韓国・・・を読む。

はかなく、素晴らしい、味わい

京の祇園の極私的元服之儀

コースケ(野村万之丞)の遺言

ミレニアム歳末読書日記 楽しい世紀末

お金と勉強

親父ゆずりの数学好き

わたしの本棚(4) スポーツを読む

わたしの本棚(3) 祭りの原型

わたしの本棚(2) ドラマの感動

わたしの本棚(1) 振動する快楽

夏休み読書日記/スポーツ・身体・ジャーナリズム

銀行は痰壺処理会社

親父の隠したエロ小説

野村万之丞――伝統と格闘するパワー

女が動く時代、男は思索せよ

バック・オーライ

二十五時――わたしの好きな世界文学

「私の京都」

わたしの東京体験

SPレコードは生演奏と同じ〜蓄音機にはまってしまった!

感銘した一冊の本〜鈴木隆『けんかえれじい』

「情報過多時代」の楽しみ方

内面より外面

不味いものが食いたい!

ああ、肩が凝る。

父の勲章

京の昼寝

祇園町の電器屋の初荷

Copyright (C) 2003-2011 tamakimasayuki.com. All Rights Reserved. Produced by 玉木正之HP制作委員会. ホームページ制作 bit.
. 『カメラータ・ディ・タマキ』HOMEへ戻る