森首相が「神の国発言」に関する弁明記者会見を開いたとき、「会見は早く終わらせるべし」などと進言した「指南書」を書いた官邸記者がいたという。それだけでも、この国のジャーナリズムの腐敗堕落を如実に示す仰天すべき出来事といえるが、さらに記者クラブが「追求しない」と決めた。開いた口がふさがらない。権力(政治)と対峙し、社会のために闘うのがジャーナリズムではなかったのか?
もっとも、この国のジャーナリズムのトップは、この程度の「柔な堕落」どころではない。権力機構に入り込み、それを動かす。いつの間にか、そんな存在になってしまった。
本書には、権力を目指し、権力を獲得し、権力をふるう一人の男の実像が、余すところなく描かれている。学生時代は共産党に入党して権力を目指し、同僚の裏切りからそれに挫折すると新聞社に入り、政治記者として権力者(大野伴睦)に近づき、<表の権力者(池田首相)と裏の権力者(児玉誉士夫)の間を自由に行き来し>、自らも権勢をふるうようになる。そして、自ら<バーコード>と揶揄するような友人(中曽根)を首相にするべく暗躍する。
渡邉恒雄という人物にとってのジャーナリズムとは「権力」を獲得し、発揮できる場以外の何物でもない。しかも、この「第四の権力」は、立法、司法、行政のような相互チェック機能も持たず、縦横無尽に「力」が揮えるのだ。
渡邊恒雄の歩んだ人生――魚住昭の描いた人生――は、日本の戦後史そのものというほかない。表と裏の権力争奪戦(マキャベリズム)の世界のなかで、マキャベリストとして最高の資質を持った人間が、その資質を最も発揮できるジャーナリズムという世界に入ったこと――それは、日本という社会と、そこに暮らす国民と、とりわけジャーナリズムの世界にとって、不幸なことだったに違いない。
本書は、我々が、渡邊恒雄という人物を、そして日本の戦後史を、清算すべき過去として考えるうえで最高のテキストであり、本年度のノンフィクションの最高傑作といえる。
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