いろんなメディアでスポーツを書いたり語ったりしてきた私に、最近は大学で教える機会が増えた。今年は3つの大学と1つの大学院で客員教授を務めている。
少子化の時代にあって、スポーツの授業が入学希望者の増加に貢献する……のかどうかは知らないが、小生は大学を卒業していないので、教える側に立つのは大変嬉しく、意気にも感じて教壇に立っている。
授業はスポーツ・ジャーナリズム論。
スポーツを知る。スポーツを見る。スポーツを訊く。スポーツを想像する。スポーツを考える。スポーツを表現する……。
この6つのテーマを軸に、スポーツやメディアの歴史を講義したり、スポーツの見方、選手へのインタヴューの方法、文章の書き方、表現の仕方などを教えたり……、スポーツ界の現状、スポーツ・メディアの問題点などを一緒に考えたり……。
とはいえ、大学はスポーツ・ジャーナリストを目指す学生ばかりではないので、スポーツを題材にして様々な物事を「考える方法」を身につけてもらうよう工夫している。
たとえば「スポーツ文化」というテーマを取りあげる場合、「スポーツ文化とは何か」ということを、まず学生自身に考えてもらう。
その答えがわからない場合や、上手く自分の考えを言葉で説明できない場合は、反対語を考えてみる、という方法があることに気付いてもらう。「平和」を考えるには「戦争」を、「生きる」ことを考えるには「死」について考えてみる、という方法だ。
もっとも、「スポーツ」や「文化」の反対語となると少々厄介だが、後者は「文武両道」という言葉に気付けば、すぐに思いつく。「文化」の反対語は「武化」。
武力で民を治めることが「武化」(武断政治)であり、その反対に武力を用いず、学問によって人々を教化し、治めることが「文化」(文化政治、文治政治)。
そこまでわかると、今度は自分たちが「スポーツ文化」という言葉を使うときの感覚と、どこか微妙なズレがあることにも気付く。
それは「文化」が「カルチャー」という言葉の翻訳語として使われているからで、「CULTURE」は「AGRI-」(土を意味する接頭語)が頭に付くと「農業・農産物」の意味になるように、本来は「(自然に)実ったもの」「(みんなに)実らせたもの」という意味だ。
ならば「スポーツ文化」は、「スポーツで実らせたもの」となるが、だったら、「スポーツ」の反対語は?
これは、さらに難しいが、スポーツの様々な特徴を話し合ううちに、「仕事・労働」といった反対語に辿り着く。ならば、はっきりと説明できずに、わかったつもりになって口にしていた「スポーツ文化」という言葉も、「労働ではない時間(余暇)のなかから実らせたもの」という意味が浮かびあがってくる。
では、この「定義」は、「プロ」(スポーツを職業にして、金銭的利益を得ている人々)が中心の現代のスポーツにも当てはまるものか?
そのことについて、再び延々と話し合っていくのだが、そんな作業のなかで、私自身が気付かされたことがあった。
それは「ジャーナリズム」の反対語は「アカデミズム」だ、ということである。
毎日毎日、次々と新しい情報を送り出し、解説や批判を加えるのが「ジャーナリズム」。それに対して「アカデミズム」は時間をかけてじっくり考える。もちろん、そのどちらもが、スポーツにかぎらず、あらゆる事柄に必要なものといえるだろう。 |