誤解をおそれずに書くが、誰でも思春期には一度くらい本を万引きするか、ネコババしたことがあると思う。
わたしの場合は、中学三年生のときのことだった。通っていた学校の赤電話の脇に、一冊の文庫本を発見した。だれかが置き忘れていったのだろう。なぜか気になって、ちょっとばかり心臓をどきどきさせながら、黙ってその本を鞄に入れた。
ところが、家に帰ってから、その本の表紙をながめて、マイッタ。
ゲオルギウ作『二十五時・上巻』――。
作家も作品も、まったく聞いたことのないシロモノだった。しかも、ページをめくると、《マルクス主義形而上学の錯誤は・・・》などと、やたらむずかしい言葉が序文にならんでいる。とはいえ、友人の誰かがこんなむずかしい本を読んでいる・・・という強迫観念におそわれたわたしは、とにかく、その本を読みはじめた。
それは、強烈な体験だった。そこに描かれていた政治情勢や人間の深層心理は、中学生には理解不可能だった。が、強烈なショックを全身に感じたことだけは確かで、上巻を読み終えると、あわてて下巻を買いに走った。
ルーマニアの片田舎に住んでいた平凡な農夫が、彼の女房に横恋慕したナチスの憲兵によってユダヤ人に仕立てあげられ、強制収容所に送られる。そこを脱走してやっとの思いで国外へ逃れると、ドイツ人だということで迫害され、逮捕される。そこも逃げ出してドイツ領内に入ると、今度は典型的ゲルマン民族の兵士の顔だといわれ、写真を撮られてナチスの広報誌の表紙につかわれる。戦争が終わると、ナチスの宣伝に協力した廉(かど)で戦犯扱いされ、監獄に入れられる。そうして刑期を終え、故郷の村に帰ってきた男を歳老いた女房が迎える。国家も人間も信用できなくなった男を迎えた妻には、子供がひとり増えている。しかし男は、その妻だけは信じようと思って抱きしめる・・・。
じつはこの粗筋は、高校生になってから見た映画『二十五時』の記憶をたどって書いたもので、原作の小説の内容とは少々違っているかもしれない。が、このアンソニー・クイン主演の映画も、わたしにとっては忘れられない名作で、いまもタイトルバックにあらわれた強制収容所の鉄条網の不気味さや、最後のシーンで妻を抱きしめながら涙を流すアンソニー・クインの歪んだ顔を、はっきり思いうかべることができる。
この映画を見たとき、じつは、わたしはピンク映画でも見ようと思い、京都で随一の繁華街である新京極の裏通りにあった「美松(みまつ)」という名前の映画館に入った。ところが映画館に入る前から興奮していたためか、三軒ならんでいた「美松」と「美松ピンク」と「美松名画座」の入り口を間違え、偶然にも、わたしがネコババした本の映画が上映されていた映画館に入ってしまったのだった。
二度にわたる奇妙でショッキングな出逢いによって、『二十五時』は、わたしにとって生涯わすれられない作品となった。さらに不思議なことに、このすばらしい名作(ノーベル文学賞にも輝いた作品)のことを知っているひとに、なぜかなかなか出逢わない。文庫本のリストにならんでいるのを見つけたことはあっても、本屋の棚で見たことはない。
それは、わたしが見つけられないだけのことかもしれない。が、わたしには、『二十五時』という作品が、何か不思議な力によって導かれた幻のようにも思え、かつて味わった強烈にショッキングな感動を、いまも心のなかで秘かに培養しつづけているのである。そして、ほかにも何度も読み返し、何度も感動したすばらしい小説がいくつもあつにもかかわらず、「いちばんすばらしいと思う小説は?」と聞かれると、いつも即座に『二十五時』と答え、必死になってそのすばらしさを説明しなければならない破目に陥るのである。 |