初場所で復活した横綱朝青龍が、優勝決定戦のあとに見せたガッツポーズで、またまた横綱としての「品格論争」が巻き起こった。
が、まったく不思議なことに、ガッツポーズが何故いけないのか(なぜ品格を傷つけるのか)ということについては誰も語らない。
そのため「思わず出た行為だからいいじゃないか」などという個人的感想までが意見としてまかり通る。その程度の「論争」では相撲界の未来が(そして日本文化の未来も)心配になる。
ガッツポーズは拳を握る。これは土俵の上では禁じられている行為である。
相撲は素手で戦う格闘技。素手とは掌(てのひら)のことで、拳は武器(を隠し持っている)と見なされる。
人の前を通ったり、人と人の間を分け入るときなど、日本人は「手刀」を切るが、それは掌を広げて掌のなかには何も隠し持っておらず、武力を用いる意志のないこと示す行為だ。
力士は立ち合いの時だけ拳を握るが、それは土俵に手をつくという行為を行うため、闘いに用いる素手(掌)に砂がつかないようにするためだ。
また、素手(掌)で闘う力士が拳を握って全身に力を込め、その力を解放させて(拳を開いて)相手力士にぶつかるためとも考えられる(古く室町時代以前は、「立ち合い」とは文字通り立ってぶつかり合うことで、現在の大
相撲の規則の立ち合いも「両掌をおろす」としか書かれておらず、「両掌を土俵につく」という表現はない)。
ならば勝利のあとのガッツポーズ(拳を握る威嚇行為)は、素手(掌)で闘わなければならない力士が、「俺は武器で倒したぞ(何をしても勝てばいいだろ)」と宣言したようなもので、だから、力士として許される行為では
ないのだ。
このような理屈をいちいち説明するのは面倒で、伝統文化は過去の「型」を理屈抜きに継承することを基本とする。もちろん「型」には意味があるが、伝統の歴史が長くなると、意味を忘れる。そこから珍妙な論争が始まって
しまうのだ。
異文化育ちの力士には、「型」を守らせるにも頭ごなしに守れと命じるのでなく、意味を説明しなければ納得できないのかもしれない。が、その意味を親方衆が説明できなくなり、「品格」という言葉だけで善悪を判断しよう
とする現状こそ、大相撲の憂うべき事態といえそうだ。
そういえば朝青龍は、懸賞金を受け取るときも「左・右・中」ときちんと手刀を切らず、行司の差し出す軍配の下に手を回したりする。
土俵の控えに座るときに胡座を組まず、両脚を投げ出す見苦しい仕種だけは(誰かが注意して?)初場所では見られなくなかったが、横綱の土俵入りでは相変わらず腰をふわふわと上下させる奇妙な動きを見せる。
古い「型」の意味を解したうえで新しい意味の「型」に挑むのなら「カタヤブリ(型破り」)といえるが、意味なく異なる所作をするのでは「カタナシ(型なし)」である。朝青龍は日本の相撲をカタナシにしかねない力士で、そんな横綱を作った親方の責任は重い。
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