スポーツをテーマにしたアンソロジー(作品集)を編んでいただけませんか?
創刊百周年で様々な記念企画を具体化している新潮文庫の編集部から、そのような依頼を受けた私は、一も二もなく喜んで、その依頼を引き受けた。
折しも日本経済新聞で「スポーツと文学」と題した連載も始まろうとしていたときでもあり、スポーツに関係のある書籍は誰よりも多く読んでいる、との自負もあったので、さっそく作品の選択を始めようとした。ところが、その前に少々難題が横たわっていた。
スポーツのうち格闘技は、それだけで別のアンソロジーを企画しているので除外。さらに野球も、いずれそれだけで企画を進めたいので除外。それにジャンルとしての小説も除外し、ノンフィクション、評論、エッセイ……等々のフィクション以外のジャンルのなかから作品を選んでほしい、もちろんすべて日本人の作家で……という条件が、編集部から示されたのだ。
一瞬、私は、ううう〜ん……と絶句してしまった。
というのは、阿部知二『日独対抗競技』倉橋由美子『百メートル』岡本かの子『渾沌未分』織田作之助『競馬』池波正太郎『緑のオリンピア』W・L・シュラム『馬が野球をやらない理由』……などなど、素晴らしいスポーツ短編小説や野球短編小説の題名が次つぎと頭に浮かんだからだった。
それに、ノンフィクション(非虚構)よりもフィクション(虚構)のほうに、「スポーツの真実」や「スポーツの多様性」に迫った作品が多いのも確かで、それらを選ぶことができないのは、けっしてオーバーに言うのではなく、少々断腸の思いがしただった。
しかし、どんな書物にもページ数という制限が存在する。制限のなかで最大限面白く有意義なアンソロジーを編むには、やはり枠組みという規制が必要だ。その枠組みがあってこそ工夫も生まれ、面白い結果は工夫のなかから得られる。そんなふうに頭を切り換えて作品選びを始めた結果、諸般の事情で選ぶことができなかった作品がいくつかあったとはいえ、なかなか面白いスポーツ・アンソロジーを編むことができたのではないか、と胸を張れる一冊に仕上がった。
作品を選んだ規準はただひとつ。スポーツの素晴らしさ、スポーツの面白さ、スポーツの凄さ、スポーツの怖ろしさ、スポーツの残酷さ、スポーツの悲しさ、スポーツの不思議さ……などなど、スポーツの本質が描かれていること、である。
では、選んだ作品を簡単に紹介する。
●吉田兼好「徒然草第四十一段 木の上で居眠りする法師」
これは不思議なエッセイだ。私は、今はスポーツ文化評論家という肩書きを使っているが、スポーツライターを名乗った40年近く前から、この作品が気になって仕方なかった。
兼好法師が京都上賀茂神社へ、現在も行われている「競べ馬」を見に行く。すると木の上で居眠りする法師がいて、船を漕ぎながら落ちそうになっている。それを大勢の見物人が「馬鹿がいる」と嗤う。すると兼好法師が口を開ける。「人の死は、誰にも今すぐ訪れるかもしれない。それを忘れて競べ馬で騒ぐ。そのほうがよっぽど馬鹿だ」
不思議なのは、この次だ。この兼好法師の言葉に感心し、自分達の愚かさに気づいた見物客は、兼好法師に最前列の見物席を譲るのである。兼好法師も、結局は「馬鹿たち」と同等の立場の一人となって、「競べ馬」を見物するのだ。それも一番いい席で。競べ馬(スポーツ)の裏に潜む現実(死)に気づいていれば、それでもいいということなのか?
この段を学校で学んだときは、最後の一文――時には忘れてしまう大事なこと(死の現実)も、人は木石ではないのだから、言われればすぐに気づくもの、ということが強調された。しかし、それだけでなく、この短いエッセイは、スポーツ(競べ馬)を考えるうえで、じつに様々なことを考えさせてくれる。
●澁澤龍彦「空飛ぶ大納言」
これは蹴鞠の愉しさ、凄さ(球と一緒になって宙に浮く飛翔願望)を表した歴史幻想譚である。一種の小説だろうが、チームプレイよりも個人プレイのほうに熱中しやすい日本人の特質を著す作品として、ルール違反を承知で選んだ。
現代日本の男子サッカーは、一流国に伍する闘いがなかなかできない。 が、フリースタイル・フットボール(リフティングの妙技を一人で演じる競技)では、世界チャンピオンが生まれている。明治時代初期、陸上、水泳、テニス、野球、サッカー、ラグビー、ゴルフ……等々、あらゆるスポーツ競技が欧米から伝播したときも、団体競技のなかでは、野球という投打の個人プレイが中心となる競技の人気が他を圧倒した。この作品には、そんな日本人の遺伝子の内奥に存在するものが描かれているようにも思える。
●E・ヘリゲル「日本の弓術(抄)」
弓術はスポーツではない――と明記されている弓術体験記を、スポーツ・アンソロジーに入れるのは明らかに間違っているかもしれない。
が、日本のスポーツを語るとき、しばしば日本の武道の影響が指摘される。そこで、その武道(武術)なるものの本質を最もわかりやすく、短い文章のなかに詳しく書き表した文章として、これを選んだ。
本文中に出てくるマイスター・エックハルト(1260〜1327)とは、《ドイツ神秘主義のもっとも重要な思想家である。その大胆な神秘主義思想のため生前すでに汎神論と目されて教会の圧迫を受け、死後教皇から破門せられた》と、訳者の柴田治三郎氏が岩波文庫の「旧版への訳者後記から」に書かれている。
さらに、「離繋(りけ)」という言葉は、ドイツ語Abgeschedenheitの訳語で、《哲学的瞑想に没頭しようとして社会的(略)な生活を離れることを意味するものと考えられる。そのような積極的な意味を重んじて、仮に「離繋」という仏語(仏教用語)を充てておいた。「離繋」は解脱を生得しようとして煩悩の繋縛を遠離することをいうとあるから、ここにいうAbgeschedenheitとは根本の意味において相通ずるものがあると考えたのである》と説明されているで、ここに紹介しておく。
ここに取り出した第二章を読まれて少しでも弓術に興味を持たれた方は、是非とも全三章を読まれることをお奨めする。
●小林秀雄「スポーツ」
小林秀雄が亡くなり、全14巻の全集が出版され始めたとき、野球、ゴルフ、それに元西鉄ライオンズ豊田泰光氏との対談など、スポーツを取りあげた文章が意外と多いことに驚いた。しかも、そのどれもが犀利(さいり)な眼力でスポーツの本質を見抜いている。
本書に選んだエッセイでも《スポーツの職業化、商業化は社會の勢ひのおもむくところだ》と、昭和34年という東京オリンピックの5年前の時点で、早くも断言していることには驚嘆を禁じ得ない。こういう分析力、認識力、洞察力、想像力を、スポーツ評論の範としたいものだ。
●三島由紀夫「実感的スポーツ論」
この大作家には、現代社会に受け入れられないストイックな武道者を描いた『剣』や、ボディビル、ボクシングなどの身体が精神に与える影響を物語の核に据えた『鏡子の家』など、スポーツを取りあげた小説も多い。また、東京オリンピックの観戦記やスポーツ評論も数多くある。
政治的には右翼的(強権的)と見る人が多いかもしれないが、本書に選んだ一編では自らスポーツと関わった体験をもとに、《選ばれた人たちだけが美技を見せるだけではなく、どんな初心者の拙技にも等分の機会が与えられる(略)スポーツ共和国》という、今日のJリーグの理念の先取りのような提案を、1964年東京オリンピックの最中に発表したことに驚かされる。三島は、「自由・平等・民主主義」というスポーツの本質をはっきりと理解していたのだ。
●石原慎太郎「死のヨットレース脱出記」
実際に死者の出たヨット・レースに参加した小説家の凄絶な体験記である。自然を相手にするスポーツの凄まじさは、本文を読んでいただければ十分で、解説の余地はない。
この作家は、東京オリンピックの時に次のような文章を残しているので紹介しておく。
《優勝者のための国旗掲揚で国歌吹奏を取り止めようというブランデージ(註・当時のIOC会長)提案に私は賛成である。(略)私は以前、日本人に稀薄な民族意識、祖国意識をとり戻すのにオリンピックは良き機会であるというようなことを書いたことがあるが、誤りであったと自戒している。/民族意識も結構であるがその以前に、もっと大切なもの、すなわち、真の感動、人間的感動というものをオリンピックを通じて人々が知り直すことが希ましい》
それこそがスポーツの本質だと、この作家も明確に理解しているのだ。
●虫明亜呂無「大理石の礎」
虫明亜呂無は、その作品と出逢ったときから我が師と尊敬し、全3巻の『虫明亜呂無作品集』(ちくま文庫)も編纂させていただいた。
ここに選んだ一編は、スポーツに関する小説や評論、観戦記、エッセイなどが多い虫明氏の作品のなかでは少々珍しい取材レポート、いわゆるスポーツ・ノンフィクションの形式になっている。それだけ人見絹江というスポーツ・ウーマンに魅せられ、いろいろ探ってみたくなり、故郷を訪ね、親戚・関係者に取材し、虫明氏は、それをそのままレポートにする方法を選んだのだろう。
小説でも評論でも、女性を見る目、女性描く筆致には、抜群の冴えを見せる氏ならではの味わいが、このレポートからも伺える。
●大江健三郎「七万三千人の《子どもの時間》」
1964年の東京オリンピック開会式を、私は京都祇園町にあった実家の電器屋の店先のカラーテレビで見た。店には30人以上の近所の人たちが押し合い圧し合いぎっしりと集まり、そして誰もが大感激した。大人たちは笑顔で涙を流した。
小学6年生のときの素晴らしい体験から20年以上を経て、あのときの感激は本物だったと再び強く納得したのが、この開会式のレポートだった。そのときは埴谷雄高・編『スポーツ、わが小王国』(新潮社)というアンソロジーのなかの一編として読んだ。
《ガーナの若者たちの行進を、かつて見た一等素晴らしい歩行だと思う》と大江氏は書いている。市川崑監督がメガホンを取ったスポーツ映画の大傑作『東京オリンピック』を今見ても、本当にそのとおりだと改めて思う。
●杉本苑子「あすへの祈念」
1964年の年の東京オリンピックについては多くの作家が健筆を揮い合った。が、開会式を見て戦時中の雨の中の学徒出陣式を思い出し、そのことを書いたのは、この女流作家だけだったようだ。その一点だけでも、これは後世に残すべき文章といえよう。
ただし、開会式から学徒出陣を連想した人は、当時の五輪組織委員会の職員のなかにもいたらしい。その人物(式典課の松沢一鶴氏)が、学徒出陣のイメージを消すことを考え、閉会式では足並み揃えた行進を取り止め、選手たちがバラバラに雪崩れ込む、お祭り騒ぎを仕掛けたらしい。1964年の日本には、開閉会式ともに素晴らしい演出家が存在していたのだ。
●有吉佐和子「魔女は勝った」
女性のスポーツを、女性の目で見て、これほど絶賛した文章を、私は他に知らない。東京五輪での日本の女子バレーの活躍は、それほど感動的だった。その感動は、古い時代と新しい時代が同居しているところにあった。
《この人たちが結婚したらさぞやイイ奥さんになることだろう》と女流作家が、驚くほど素直に讃えたようなスポーツウーマンの存在は、昭和39年というまだ戦前の秩序や節度が残っていた時代の産物と言えるのだろう。
●佐瀬稔「グランド・ジョラス北壁の生と死――森田勝」
佐瀬さんには、プロ野球、メジャーリーグ、ラグビーなどの取材現場で数多く御一緒させていただき、多くのことを学んだ。
「近頃は、勝ってヒーローになったスポーツマンに向かって、この喜びを誰に伝えたいですか? なんて馬鹿なコトを訊く奴がいる。そんなこと、訊かなくても調べりゃわかることだ。どうせ訊くなら、この喜びを誰にだけは伝えたくないですか? と訊け。そのほうがオモシロイ人間関係がわかる……」
オモシロイ人間関係で、佐瀬さんは常に一匹狼にならざるを得ない弱者の立場に立っていた。それは彼の登山に関する文章を読めばわかる。
●沢木耕太郎「長距離ランナーの遺書」
この作家が登場する以前にも、スポーツのことを書いた作家は数多く存在した。が、スポーツ・ノンフィクションというジャンルが確立され、『ナンバー』という雑誌の創刊にまでつながったのは、間違いなくこの作家の素晴らしい諸作品がきっかけとなった。
そんななかで、鋭いランニング論(マラソンに対する視点)と、綿密な取材と、驚きの新発見が、見事に合体した傑作を、初期の作品のなかから選ばせていただいた。
●開高健「死は我が職業」
本書に採録した作品が含まれている『オーパ!』の冒頭には、次のような中国古詩が引用されている。《一時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい/三日間、幸せになりたかったら結婚しなさい/八日間、幸せになりたかったら、豚を殺して食べなさい/永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい》
「釣り」を「スポーツ」という言葉に置き換えてもよさそうだ。
じっさい明治初期に欧米からスポーツが伝播したとき、最初の翻訳語は「釣り」だったという。続いて「乗馬」。いずれも、それらをやっている外国人に、英語の話せる日本人が、what
are you doing? とでも訊いたのだろう。すると、I'm playing a sport. という答えが返ってきた。
しかし「釣り」も「乗馬」も「スポーツ」なら、スポーツとは何? という疑問が残り、遊技、運動、体育など、いろんな訳語が生まれた。が、今もってしっくりする日本語訳は生まれてない。おそらく存在しないのだろう。だから、「スポーツ」はスポーツのままでいいのだろうが、それならスポーツという輸入文化を我々日本人がきちんと消化するためには、スポーツとは何か? ということをもっと考える必要がありそうだ。
●山際淳司「たったひとりのオリンピック」
『ナンバー』の創刊号に発表するデビュー作『江夏の21球』を執筆されていた頃、私は何度か山際さんに軽い口調で文句を言った。「あれはピッチャー江夏が手を滑らせただけじゃないんですか?」
すると山際さんは、笑顔でこう答えた。
「そう思うんだったら、そういう視点で書いてみればいいよ」
そしてさらに、こう続けられた。
「ノンフィクションといっても、いろいろな視点があるんだから」
私は、山際さんの作品のなかで、ここに選んだ作品がいちばん好きである。
●村上春樹「僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎日走ることから学んできた」
「走ることについて語るときに僕の語ること」と題されて一冊にまとめられた文章は、全部で9章ある。どの章を読んでも面白いのは、作家の思考や日常が、「走る」というスポーツと無理なく美しく合体していることだ。
本文中に書かれている小説家の資質――才能、集中力、持続力――も、チャンドラーを例にとった「作家に必要な筋力」の鍛え方も、まるでスポーツそのものである。
虫明亜呂無氏が、ある彫刻家の言葉を引用して「生活はスポーツでなければならない」と書いていたことが思い出される。生活もスポーツのように《機能化され、無駄を省き、簡潔なものになってゆかねばなら》ず、さらにスポーツのように《文化的に向上し、多くの喜びがもたらされなければならない》と(『スポーツ人間学』より)。
もともとスポーツとは、日々の労働から「離れる」という意味だったが、現代では、スポーツを日常にどう取り込むかがテーマになってきたようだ。
●玉木正之「彼らの楕円球」
読んでいただければわかるとおり、この作品には虚構(フィクション)が含まれている。どこからどこまでが虚構なのか、その判断は読者にお任せするが、筆者はすべて真実、ほとんど事実を書いたと確信している。
この作品の元々のタイトルは「彼らの奇蹟」だった。が、そのタイトルがこのアンソロジーのタイトルにぴったりで、是非とも使いたいと思った。しかし、編者の自作のタイトルをそのままアンソロジーのタイトルにするのは、少々傲慢が過ぎると思ったので、小生の作品のタイトルのほうを変更した。
●後藤健生「電脳社会とサッカーの未来――二十一世紀に、サッカーはどうなる?」
サッカーを歴史的・文化的視野からとらえて書く第一人者の「未来のサッカー論」である。
本書に採録させていただいた文章のなかで、《二十一世紀は大きくはなくても、むしろ快適なスタジアムが必要だろう》という正論を、2002年日韓W杯の7年も前に早くも書かれているのには驚くほかない。。サッカーの過去を知り尽くした人物にしか書けない未来像に違いない。ところが、こんな貴重な意見を無視して、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、日本は再び時代錯誤の「大艦巨砲主義」の巨大スタジアムを建設し始めた。嗚呼。
●宇都宮徹壱「死者を巡る物語」
サッカー(アソシエーション・フットボール)という「世界文化」を知るには、やはりそれを生んだヨーロッパ世界を知らなければならない。すると、そこには、中世ヨーロッパの幻想譚のような世界が広がっていた。私は、彼の多くの文章から、スポーツ(サッカー)にも塗り込められているヨーロッパ世界の深い闇を教わった。
未来のスポーツライター、サッカーライターたちには、この視点を、是非ともアフリカ世界、イスラム世界、そしてアジア、日本のサッカーの世界へと、広げていってほしいと思う。
●中村計「普通の天才」
21世紀の現代社会における、現代人とスポーツとの関わりは、とてもじゃないが、数少ない類型に当てはめて語れるようなものではなくなった。努力、刻苦、克己、執念、天才、運命、諦念、栄光、挫折……。言葉は山ほどあるが、現代のスポーツや現代のスポーツマン、スポーツウーマンを表現するのは、相当に難しい作業になってきたようにも思われる。しかし、それだけに、それは面白く、やり甲斐のある作業と言えるに違いない。
本アンソロジーの最後を飾る作品として選んだのは、ゴルフがテーマのスポーツ・ノンフィクションである。ゴルファーの世界ではエリートとは呼べないかもしれないが、どう考えても裕福な境遇に生きるプロゴルファーが、「イップス」という奇病に取り憑かれれて煩悶する。しかし……。
これは、明らかに、現代日本のひとつの姿と言えるだろう。
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こうして19の作品を選び、この解説文を書いているとき、あることに気づいて愕然としてしまった。というのは、多くの作品に「死」というテーマが含まれていたからだ。それは、意図したことではなかった。
作品を選ぶときは、先に書いたとおり、スポーツの本質が描かれていること、という規準しか持ち合わせていなかった。さらに付け加えるなら、私が読んで、これは面白いと、興奮させられた作品を選んだ。
そのなかで、ヨットや登山や早世したスポーツウーマン、マラソンやヨーロッパ・サッカーを描いた作品に、「死」が関係することには気づいていた。が、競馬、蹴鞠、釣、それに東京オリンピックの開会式、作家自らのマラソン体験記にも「死」が顔を出し、「死」を意識しないでは読めない作家のスポーツ論まで含めると、19の作品のうち、なんと半数を超える11もの作品に、「死」と関係のある記述が含まれていることに気づいたのだ。それは愕然とせざるを得ない事実だった。偶然の結果か? そうとも言えない必然的結果なのか? まったく意図しなかったこの結果を、どう考えればいいのだろうか?
スポーツとは、あきらかに「生の躍動」である。人間の「生」が躍動し、生きている証が露わになり、「生」の喜びが頂点に達すると、「死」が顔を出す、というわけか。いや、早計に結論を出す必要はないのだろう。この予期せぬ結果にこそ、スポーツの本質が存在しているようにも思えるのだから、それはじっくりと考えるべき問題といえるはずだ。(以下略) |