京都祇園という色街のすぐ隣にある商店街に生まれ育ったおかげで、いま考えると奇妙な出来事に数多く出くわした。たとえば、電器屋を営んでいたわが家の裏に、「むかしは、ほんに可愛いらしい舞妓さんやった」と、年寄り連中が口を揃える婆さんが暮らしていた。
子供の目にはせいぜい、背が低く、腰のまがった、いつも和服を着ている婆さん、という程度にしかうつらなかったが、どことなく落ち着いた品の良さのただよっていることは理解できた。
店に陳列していたカラーテレビで歌舞伎中継などが放送されていると、「ごめんやす。ちょっと見せておくれやっしゃ」などといいながら店のなかにまで入り、ちょこんと椅子に座り込む。「やっぱりカラーテレビは綺麗おすなあ。けど、カラーで見ても海老蔵はんの声までは良うはなりまへんなあ。見映えはよろしおすのに惜しいこってすなあ」
彼女はそんな言葉をひとりでつぶやきながら、海老蔵の『助六』が終わるまでの二時間近くのあいだ、じっと画面に注目し、わたしの母親のさしだすお茶をのみ、羊羹をたべ、「おおきに。いつも邪魔してすまんことどすなあ」といって、しずかに家を出て行く。
わたしの親父は、「また、ただ見か」などといって笑っていた。彼女の姿には、追いたてることのできない気品なようなものがあふれていた。
「そら、なんちゅうても天皇陛下の見合いの席にすわったくらいのおひとやさかいな」
わたしの母親が、そんな言葉を口にしたことを憶えている。
昭和天皇が皇太子だったころ、京都の公家の娘さんと見合いしたその席に、ふたりきりでは話もしづらいだろうとの配慮からえらばれたのが、その婆さん、いや、若かりしころの祇園で随一の舞妓だった、というのである。
それが本当の話なのかどうか、わたしには確定できない。いちど宮内庁記者を長年つとめたという人物にきいてみたことがあるが、「そんな見合いの話はきいたことがない」といわれた。
しかし、その婆さんは、毎年秋になると、「恩賜の柿の木からとれた」という柿を近所のひとにくばってまわり、わたしの家族も御相伴(ごしょうばん)にあずかっていた。その柿の木は、皇太子の見合いの席に同席したときの御礼として、大正天皇から賜ったものだというのである。
「ほんまかいな」「そういや蔕(へた)のところが、どことのう菊の御紋に似とるで」「なるほど色艶(いろつや)も、ほかの柿とはちょっとちがうで・・・」などと、毎年秋になると商店街のおっさん連中やおばはん連中が「恩賜の柿」を話題にした。
その物静かな婆さんの身体に、とつぜん生気のみなぎった時期があった。それは世の中が「70年安保」で騒然としたときのことだった。いつもは自動車を避けることばかり気遣いながら、とぼとぼと俯き加減にあるいていた彼女が、とつぜんまがっていた腰をしゃんとのばし、和服の裾をひるがえすように大股で闊歩(かっぽ)しはじめたのである。
「近ごろはお元気にならはって・・・」と商店街の主婦が声をかけると、「へえ、おおきに、おかげさんで」と張りのある声がかえってくる。いったい、何がどうなったのか・・・とだれもが首をかしげていたある日、わが家の店先のカラーテレビで歌舞伎を見終えたあと、婆さんがわたしの母親にむかってつぎのような話を口にした。
「最近の若い男衆(おとこし)はんは、ほんに元気でようおすなあ。ついこのあいだも同志社にかよてはる学生はんが逃げてきやはったもんで、家においれしたげて、ついでに御飯もたべさしたげて、お風呂にもいれさしたげたんどすけど、ほんにええからだをしておいやしてなあ。へえ、石鹸もっていったげたときに、ちょっとのぞかしてもろたんどすけど、背中も肩幅もひろうて、おいどなんかもぷりぷりいっとしてはりましてなあ。そのまえには立命の学生はんが泊まっておいきやしたんどすけど、その男衆はんのおいどもやっぱりぷりぷりしておいやした。けど、京大はんだけはあきまへん。勉強ばっかりして運動してはらへんせいか、からだもやせておいやして、おいどもしなあっと貧弱で、あんまり可哀想に見えたもんどすよってに、いつもはお茶漬け(おぶづけ)しかだしまへんのやけど、そのときは奮発してトンカツたべさしてあげたんどすえ・・・」
当時、学園紛争華やかなりしころの京都では、「祇園さん」と呼ばれている八坂神社の裏にある円山公園で集会の開かれるのが常だった。そこをめざして四条通を東へすすむデモ隊は、いつも一力茶屋のある花見小路付近でジグザグデモをおこない、機動隊と衝突した。そして一斉逮捕に出た機動隊に追い散らされた学生の多くが、犬夜来(いぬやらい)の並ぶ祇園町へ逃げ込むと、紅唐格子(べんがらこうし)の木戸が内側から開き、彼らを招き入れてくれる民家や御茶屋がすくなからずあった。婆さんの住まいは、そんな家のひとつであり、デモが頻発するようになるにつれて婆さんはますます元気になり、血色もよくなった、というわけだったのである。
もっとも、そのころ中学生だったわたしには、なぜ婆さんが「若い男衆はんのぷりぷりいっとしたおいど」のことを、それほどうれしそうに語るのか、十分理解することができなかった。しかし、「今度ほんまにええ男はんやと思えるような学生はんが逃げておいでやしたら、だれぞええ妓(こ)でもつけたげよかと思てますねん。いくらなんでも、もう、あてではお相手できまへんよってになあ」といった言葉には、腰のあたりにモゾモゾっと電気のようなものが走るのを感じたものだった。
同じころ、「デモに参加して祇園町に逃げこんだら、なんかおもろいことがあるそうやで」などとささやきあっていた悪友たちの言葉を聞きながら、こんなすばらしい婆さんの住んでいる街のすぐ近所に生まれてしまったことを恨めしく思ったものだった。いくらなんでも、自分のすぐ裏にある家で、舞妓と一緒に一夜を過ごすわけには・・・。
そのうち70年を境にして学園紛争もデモも収束にむかい、学生たちが祇園町に逃げこんでくるようなこともなくなり、わたしが東京の大学に入学したころには、京都でデモに参加できないこと(祇園町に逃げこめないこと)にたいする嫉妬の念も消え失せた。
そして、いまでは、件(くだん)の婆さんも天寿をまっとうして、この世を去った。婆さんの住んでいた家の付近は、ごっそりと地上げされ、マンションになった。その界隈はドーナツ化現象によって古くからの住人も急激に減り、地元出身の舞妓もいなくなった。おまけに京都の街にも高層ビルの建設が許可されるようになり、先斗町では格子戸を不燃性の合成樹脂製のものに変える動きまであるという。
いま、京都の町並みは、その景観を大きく変えようとしている。が、わたしにはそれが景観だけの問題とは思えない。
室町時代には、京都の町衆が祇園祭をうみだした。幕末には、倒幕を唱える浪人たちを舞妓がかくまった。明治には日本で最初の市電が走った。戦前には多くの反戦思想家を生んだ。戦後には全国に先駆けて革新市政・革新府政を実現した・・・。そんな京都の歴史のすべてが、いま、バブル経済とその崩壊という一事のために、終止符を打とうとしているようにも思える。
「江戸」が消えて「東京」と名前も姿も変わったように、ひょっとして、いま、「京都」も消えようとしているのだろうか・・・。
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(註)「おいど」とは京都弁で「お尻」のことです。 |