フリーの雑誌記者として取材対象に「スポーツ」を選んだことに、さしたる意味があったわけではなかった。
大学を横に飛び出し、『GORO』や『平凡パンチ』という若者雑誌に記事を書き始めていた私は、ある日、信頼する編集者から「何か専門のジャンルを決めたほうがいいよ。そのほうが我々も仕事を頼みやすいから」と言われた。そのとき間髪を入れず「スポーツ」と答えたのは、ただスポーツを見るのが好きなだけのことだった。
野球やボクシングの取材で、無料(ただ)で後楽園球場のネット裏や後楽園ホールのリングサイドに座ることができるのは最高に魅力的なことだった。そんなわけで、資格試験もなく雑誌記者としてスポーツの現場に足を運ぶようになったのだったが、すぐに「壁」にぶつかった。
当時(一九七〇年代中頃)の雑誌のスポーツ記事は沢木耕太郎氏の書く「人間ドラマ」が中心で、私が脳裏にボンヤリと思い描いていた「スポーツの面白さ」――つまり「技術の凄さ」や「作戦の妙味」などから生じる胸がスカッとする「スポーツの醍醐味」をそのまま描くような記事は、なかなか理解してもらえなかった。当時まだ20歳代だった私は、「人間ドラマ」でない「スポーツの魅力」を言葉でキチンと表現することができなかったのだ。
スポーツは人間を超える
そんなときに、「記録の神様」と呼ばれていた宇佐美徹也氏(報知新聞記録部長・当時)と出逢い、野球を「記録」から見ることで、「野球の魅力」を浮き彫りにできることを教えられた。
たとえば昭和四八年八月、王貞治が通算ホームラン数で、それまで日本一だった野村克也の通算五六四号を追い抜いたとき、野村は次の試合ですぐに抜き返し、そんな抜きつ抜かれつの「通算ホームラン数争い」を一か月近くも続けたのだ。当時三八歳だった野村は、「若い(三三歳の)王など意識にない」と語っていた。が、強烈に意識していたことは記録にはっきりと残されていたのだ。
パ・リーグ(南海ホークス)の名捕手だった野村は、キャッチャーとしてオールスター戦でセ・リーグ(読売ジャイアンツ)の王と対戦したときも、パ・リーグの一流投手の投球をリードして一〇年間で三九打数三安打、打率は一割にも満たない七分七厘。ホームランを一本も打たすことなく押さえ込んだ。
野村克也という野球人の執念も凄いが、そんな記録を発見した宇佐美氏も凄いと思った。さらに、そんな執念を記録に残す「野球というスポーツも凄い」としか言い様がなく、それはアメリカのベースボール・ライターだったロジャー・エンジェルの言葉を思い出させた。『ベーブ・ルースと言えどベースボールより偉大ではない』
「江夏の21球」から考える
そのような野球(スポーツ)そのものの持つ魅力を伝えることこそ面白いと、より強く意識したのは一九八〇年四月、文藝春秋社から雑誌『ナンバー』が創刊されたときのことだった。創刊直前の準備段階の会議に何度か出席して意見を求められた私は、スポーツの現場で自由に取材ができるよう、スポーツ記者クラブへの加入を主張した。それはスポーツの取材のたびに、雑誌記者はいちいち取材申請書を書かされ、繰り返し許可を得なければならないことにウンザリしていたからだった。
が、私の意見は一蹴された。「間違えちゃいけない。『ナンバー』は『スポーツ雑誌』じゃない。スポーツを通して人間を描く『人間雑誌』なんだ」それが編集長の意見で、副編集長にも同じことを何度も強く言われた。 たしかに沢木耕太郎氏の書く「人間ドラマ」は面白かった。彼の作品は私も愛読し、感銘も受けていた。が、それは「スポーツそのものの魅力」が描かれたものではなく、「スポーツを通して人間が描かれた作品」だった。
そのことは『ナンバー』創刊号に掲載されて話題になった山際淳司氏の『江夏の21球』で一層鮮明になった。
以下は、『世界思想』のホームページで、お読みください。https://web.sekaishisosha.jp/posts/7960
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