「ほな、親父(おや)っさん、お銭(ぜぜ)が細かいよってに数えながら渡すでぇ。よう見ときなはれや。ほれ、一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)……、ほんで親父(おや)っさん、いまは、いったい何時(なんどき)や?」
「へえ。九つでおます」
「十、十一、十二……」
御存知、上方落語の『時うどん』である。『時そば』と違うの? と思われた方は関東の御仁で、『時うどん』を真似たのが『時そば』である、という話をこてこての大阪人である友人から聞いたことがある。
「おい、親父(おやじ)。銭(ぜに)が細(こめ)けえから数えながら渡すぜ。よく見なよ。一(ひの)、二(ふの)、三(みの)、四(よ)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)……ところで親父。いま、何時でえ?」
「へえ。九つで」
「十、十一、十二……」
「全部『時うどん』のパクリや。おまけに下衆(げす)い話し方やないか。情緒ちゅうもんがない」と実演付で言葉をつづけた上方の友人は、「そばなんちゅうもんは貧乏人の食いもんや」とまで断言した(註・発言通りなので御容赦ください)。
「納豆食うくらいなら死んだほうがマシや」とも口にする男で、「そもそもそばは旨いもんが育たん痩せた土地でもできるもんで、そういう痩せた土地の住人がありがたがって食うもんなんや」と、そば批判を展開した。
「おまけに、あの出汁(だし)はなんや。真っ黒けやないか。あの塩っ辛い濃い味はなんや。江戸っ子はその真っ黒けの塩っ辛い濃い味の出汁にそばをちょろっとつけるだけで、ズズズッとすするのが粋やなんて意気がっとるけど、昔は高価やった醤油をケチっただけの話やないか。不味いそばを喉の奥へ押し込むため、濃い味で誤魔化しただけの話やで。せやのにおまえは、そんなそばが好きやっちゅうんかいな。関東の生活が長(なご)なって、舌が壊れたんとちゃうか。困ったもんやで」
こうまでいわれては、黙ってられないので、少々百科事典をひっくり返してみると(ネットで調べる癖が、まだ身につきませんので)、たしかに『時そば』の原話は『時うどん』だった。が、そばも、もともとは関西が発祥だったらしい。ところが農業の生産性が悪かった(火山灰地で土地の痩せている)関東でも、そばはよく育ったので、信州や甲州など、そばを特産とする土地が江戸の周辺に生まれ、下総の野田の醤油とコラボして、江戸(関東)の「そば文化」が発展したらしい。
とはいえ、21世紀の現在となっては西と東の農業の生産性に差などまったく存在せず、そばか、うどんか、濃い出汁か、薄い出汁か、というのも、単なる味覚上の趣味の問題以外の何物でもないはずだ。
ところが関西には、いまでも「関西ナショナリズム」または「関西中華主義」ともいうべき関西優越論を展開する輩が存在する。
彼らは、タイガースがジャイアンツよりもカッコ良く強いことを自明の理として主張する(タイガースがジャイアンツに時折負けることがあるのは、彼らの理屈によると、カッコ悪くしてまで勝ちたくないから、ということになる)。
また、甲子園が東京ドームよりも素晴らしいことを自慢する(これはたしかに誰の目にも明らかな事実ですね)。
さらに、エレベーターには右側に立つのが当然という(明治の廃刀令以来、左側に寄って刀を守る必要はなくなり、胸に入れた財布を守るため、右側に寄るのが当然という主張らしい)。
そして、うどんのそばに対する味覚的優越、薄味鰹出汁の濃い口醤油出汁に対する味覚的洗練を、口角泡を飛ばして語るのである。
先の友人もそんな一人で、大阪で逢ったりすると、必ず「けつねうろん食お。けつねうろん」と誘われる(日本で最初にきつねうどんをつくった店が道頓堀にあり、たしかにその店の「けつねうろん」は旨いのだが、ここではそばがテーマなので、店の紹介は割愛させていただく)。
何年か前、その男と久しぶりに京都で逢ったので、よしっとばかりに「旨い店を紹介する」といって、有無をいわさず連れて行ったのが、「創業五百四十余年。やんごとなき御方より召されて、山鳥の尾張の国より都にまいりしは、室町時代花の御所の時なりと家譜に伝える本家尾張屋」だった。
早い話が、そば屋である。
友人は、少々を顔を顰めたが、「寛正六年(西暦一四六五年・応仁の乱の前年)に、菓子司として始まり、次第にそば処としても京の町衆に親しまれるようになりました」と書かれているパンフレットを手にしては、挑戦しないわけにもいかなくなったのだろう、鴨ざるを所望した。
そして口にしたあと、こういった。
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************************************ つづきは単行本をお買い求めの上、お楽しみ下さい。筆者敬白。
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