面白くて、ためになる。一冊の本が与えてくれる満足としては、この二点が満たされていれば十分といえる。
本書で六冊目となるシリーズ『興亡の世界史全21巻』は、これまで上梓されたどの巻も、その単純にして十分な満足を与えてくれる見事な内容だった。そして本書『大英帝国という経験』は、まさに本シリーズの核心ともいえる凝縮された内容に仕上がっている。
我々がこれまで学んだ世界史は、ほとんどが「世界史」とは名ばかりで、たかだか百年から二百年前に認知された現在につながる「国家」を軸にした「各国別政治史」にすぎなかった。それに対して本シリーズは、まさに「世界規模の歴史」が描き出されている。
世界を舞台に興亡を繰り返す主役は、常に帝国である。なかでも自他共に帝国であると認識し、最も最近まで実在していた帝国が、本書のテーマ「大英帝国」である。
アレキサンドロスの征服や、遊牧民との関わりでとらえた唐帝国、さらにイスラーム帝国等を描いた他の巻も、帝国という複雑な「生き物」の形状と構造と運動が、常に現代という時代との関わりを視野に入れるなかで記述され、新鮮な驚きに充ち満ちていた。
が、本巻の大英帝国では、資料の豊富さに加えて著者の井野瀬久美恵が女性ならではの柔軟な視点と分析力を発揮し、さらに面白く、さらにためになる一書となった。
早くして寡婦となりながらも、旧来の《政治権力の主体》としての君主(皇室)を《親しみや敬愛の対象へと重心を移し、国民統合の象徴的存在へと変》えることに成功させた「帝国の母」ヴィクトリア女王から、「イラク建国の母」といわれ、最後に大英帝国に裏切られて孤独な死を迎えるガードルード・ベルに至るまで、じつに数多くの有名無名の女性が登場するが、それだけでも、著者の女性としての視点は「世界史」にこれほど多くの女性が深く関わっていたのかという驚きを(評者のようなバカな男に)与えてくれる。
帝国とは、《植民地の実態や統治の現実とは別に、(略)想像やイメージの問題もあった》わけで、政治や経済や植民地経営の推移を追うだけでは、その形状と構造と運動を読み解くことなどできない。そこで、帝国に出現したあらゆる表象が、まるで「帝国博覧会」のように陳列され、分析される。
たとえば、絵画(港で子供に向かって海の彼方=植民地を指さす男の絵)や肖像画(ヴィクトリア女王の描かれ方)といったヴィジュアル情報に対する分析はもちろん、嗜好品の推移(コーヒーやココアや紅茶)、流行した日用品(石鹸)、新たな流行(展覧会、植物園、ツアー旅行、ミュージックホール、フーリガン)……等々、帝国から湧き出すようにして帝国を彩った様々なモノやデキゴトが紹介される。
その細かく丁寧な作業も、女性ならではといえるかどうかはさておき、見事というほかない。そして、それらのモノやデキゴトが、リゾーム状に絡み合って立ちあがった立体モザイクとしての帝国のなかで、人々が動き、国が動き、やがて、複雑にもつれた巨大なリゾームに絡め取られて、動けなくなる。
アメリカという広大な植民地を失いながらも、オーストラリア、カナダ、さらにインドという「新たな帝国の一員」を獲得して発展し、奴隷貿易で巨万の富を築いたあとには、掌を返して奴隷解放を旗印に世界へ羽ばたき、しかし、南アフリカで、アフガンで、スーダンで、闘いに敗れ、戦後処理に失敗し、パレスチナとイスラエルを巡る「三枚舌外交」で禍根を残し……、その崩れゆく帝国の姿は、まさに巨大恐竜の死に絶える様に思える。
しかし恐竜とは異なり、死に絶えることのできない国家は、いまも帝国時代の過去の清算(奴隷貿易に対する謝罪や、黒人イギリス人の増加等々)に悩まされ、もがいている。
次は「アメリカ帝国」が…、そして「中華帝国」が…と推測するのは簡単だが、帝国に代わる過去に存在しない「平和の方法」を考えるうえでも、本書と本シリーズに記された過去の帝国の実像と現状が、多くの人々の共有の知識となってほしいと思う。
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