最近は小説の売れ行きが悪くなったらしい。が、それ以上に、我が国では戯曲がまったく売れないという。理由はいろいろあるのだろうが、オーストラリアの花嫁失踪事件(そんな事件がありましたね)のように“フィクション”(虚構)が“現実”と化し、必然的に小説(フィクション)がメタ・フィクショナルな形態にならざるをえないヴァーチャル・リアル(仮想現実)のような現代社会では、逆に、最初からフィクショナルな構造(虚構でしかない舞台)を前提に書かれた戯曲を読むことが、もっと注目されてもいいように思う。
そんななかで、イッセー尾形という希有な才能を持つ役者の独り芝居を活字化した本書は、見事に“現代的な本”といえる。そこには、“現実”と“虚構”の区別が判然としなくなった現代社会に生きる現代人の姿が、ありのままにえがかれている。
不倫相手とわかれようとしてわかれられない中年サラリーマン・・・。仕事で不測の事態に陥りながら、それを取引先の部長に伝えることのできない会社員・・・。以前住んでいたよりも小さなマンションの一室に引っ越すことを余儀なくされたサラリーマンの女房と二人の子供との会話・・・等々、本書には15本の芝居(と、ほかに関川夏央とさくらももこのエッセイ)がおさめられている。
そこには“ドラマ”というものが、まったく存在していない。
中年サラリーマンがどんな事情でどんな女性と不倫する関係に陥ってしまったのか・・・。仕事のうえでの不測の事態とはどんな原因からどんな事態が生起したのか・・・。なぜ一家は小さなマンションに越さなければならなくなったのか・・・。そういった事情はまったく描かれておらず、そのような状況に直面した人間の生活の一部だけが、15〜30分の時間の長さだけ切り取って提示されているのだ。つまり、“現実”がぶっきらぼうに投げ出されているわけで、だから「カタログ」なのだ。
もちいられている言葉(台詞)も、日常われわれの口にする言葉が往々にして支離滅裂であるように、支離滅裂のままである。しかし本書を読みすすむうちに、そのあまりにも生々しい“現実”が、きわめてフィクショナルであることにがくぜんとさせられる。
中年サラリーマンが不倫の関係を清算するのも、不測の事態に陥った仕事を取引先の部長に告げるのも、小さなマンションに引っ越したサラリーマンが家族の理解を得るのも、じつは、どれもさほど困難なことではない。が、本書に登場する人物(イッセー尾形の演じる人物)たちは、それぞれの状況のなかでみずから新たな虚構をつくり、演技を開始し、その場をとりつくろおうとする。そして読者は、そのような新たな虚構の構築こそ、現代社会における<都市生活>のまぎれもない“現実”にほかならないことに気づかされるのである。
この“つくられた現実”を演じるイッセー尾形の舞台を観るときは、彼の見事な演技力によって、“フィクション”であるはずの舞台が“現実”に転化する“芸”を、芝居のカタルシスとして味わうこともできる。が、活字で読む場合は、いかに彼の舞台上の演技を思いえがこうとしても、そのようなカタルシスは得られない。それだけに、現代社会の“フィクショナルな現実”の恐ろしさを倍加して味わうことになる。
かつて近松は、<藝というものは実と虚の皮膜の間にあるもの也><生き身の通りを写さば、たとひ楊貴妃なりとも愛想の尽きる処あるべし>と書いた。が、イッセー尾形と彼をささえる森田雄三の写しだした<生き身の通り>の現代人の姿には、<愛想の尽きる処>がない。いや、そう思わせることこそ、現代の新たな<虚実の皮膜>を構築した彼らの才能というべきなのだろう。 |