泥沼不況に出口は見えず、世の中ムカツクことばかり。そういうときは、ちょいと憂き世を離れて脳味噌を解放しよう。
野矢茂樹『無限論の教室』(講談社現代新書)は、脳味噌のマッサージに最適の一冊。
アキレスは亀を追い抜けないというパラドックスから、ゲーデルの不確定性定理まで、架空の男女二人の学生を相手にした架空の講義が始まる。
<線分から無限の部分を切り取る(cut off)ことはできますが、線分を無限の部分に切り分ける(cut into)ことはできない。だから、ケーキが仮に無限に切り取り可能だったとして、ある人がそれを半分食べ、またその半分を食べ、というように、無限に食べ続けることはできるが、しかし、無限の人数の人たちが同時にそれを切り分けて食べることはできない>
この手の話は、日常生活の役には立たない。が、オモシロイ。いや、オモシロイと思う心を持たないと、憂き世がさらに世知辛くなる。
<「『偶数は偶数である』は真ですよね」(略)「それ、偽です。だって、偶数というのは『偶数』という概念、『偶数』という集合ですから、個々の偶数全体の集合はもう偶数とか奇数ではありません。むしろ『偶数は偶数ではない』が真です」そうなんだよな、「犬」は犬じゃないんだ>
なるほど。会議なんかでも概念と実態をごっちゃにして話す奴が・・・などという読み方は著者の本意ではあるまい。が、煩悩を捨て切れない者は、そんなふうに思ってしまう。
平田オリザ『演劇入門』(同)は<一つの架空の世界を構築する行為である><戯曲を書く作業>を通して<リアル>ということを考えさせてくれる。
<かつて演劇は、メディアとして「見てきたような嘘をつく」役割を果たしていた。しかし、現代においては、宇宙の果ての風景から人体の内部まで(略)私たちの眼に見えないものは何一つないかのようだ。しかし、それでも見えない、そして、何よりも見たいものが、ただ一つある。私たちの精神の振幅、私たちの心の在りようを覗き見てみたいと、人々は切に願っている>
そのための<リアル>なウソ(演劇)の構築法を知ることは、虚構的な現代社会の日常生活(とりわけ会社での会話)に大いに役立つ・・・など書くと、著者に叱られるだろうか?
工藤庸子『フランス恋愛小説論』(岩波新書)も、五つの小説(ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』、ラクロ『危険な関係』、メリメ『カルメン』、フローベール『感情教育』、コレット『シェリ』)を通してロマン(虚構)の世界の遊び方を教えてくれる。
と同時に、恋愛(日常的虚構?)とはいつの時代も変わらぬものと気づかせてくれる。これって、「無限論」? |