「すこしのことにも先達(せんだち)はあらまほしきことなり」
旅に出ると、かならずこの『徒然草』の一節を思い出す。最近はじめて熊本へ行ったときも、そうだった。
講演の仕事を終えて一泊し、翌日の昼前には羽田行きの飛行機に乗る強行軍。そこで、とにかく旨い馬刺しを食べることと、漱石が第五高等学校の英語の教師をしていたときに住んでいた家(内坪井旧居)を訪ねること。この二つだけは達成しようと心に誓った。そしてどちらも、我ながら見事にクリヤーすることができた。
馬刺しは、偶然乗りあわせたタクシーの運転手が、鮪のトロよりも柔らかな、とろけるような肉を出す店を教えてくれた。漱石のほうも、観光客がひとりもいない早朝、敷地五百余坪の古い日本家屋の縁側にすわり、長女の筆子が産湯をつかった井戸のある庭をながめながら、三十分近くも物思いにふけることができた。
が、熊本城で失敗した。
漱石旧居の開館までに時間があったので、少し時間を潰そうと思い、城に足を運んだまではよかったが、城壁のなかで迷ってしまった。
周囲の見事な石組みに見惚れたためか、天守閣への道はいったん坂を下るという生半可な知識が災いしたためか、案内板にしたがって歩いたつもりが、いつの間にか堂々巡り。このままでは漱石の家に立ち寄る時間がなくなってしまう・・・とあせり、右往左往したあげく、やっとのことで天守閣の前の広場へ出たが、天守閣の上まで登る時間はなし。やむなくUターンしたところで、「先達はあらまほしき・・・」という言葉が頭に浮かんだ。
もっとも、道に迷ったおかげで、美しく整えられた広い牡丹園を通りぬけたり、天守閣からはずれた場所にある寂れた楼閣跡などなどを見ることができた。先達(案内人)にしたがって一直線に天守閣へ向かっていれば、それらには出逢うことができなかったはずである。だから、
「先達はあってもなくても・・・いや、女性の先達ならばあらまほしき・・・かな?」
これもまた、旅に出たときはいつも思い浮かべる言葉である。 |