欧米から我が国へ「スポーツ」が伝播(でんぱ)したのは文明開化の明治十年前後だった。が、それ以前の日本にも「身体文化」は存在した。
『日本書紀』の垂仁(すいにん)記には、当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の格闘が記され、それは相撲や柔道の原型とされている。
皇極(こうぎょく)記には、中大兄皇子と中臣鎌子が「打毬(ちょうきゅう)」に興じながら蘇我入鹿を討つべく密談する描写がある。打毬は、後の蹴鞠(けまり)とは別の球戯。「今日のポロまたはホッケー風の競技」(小学館版『日本書紀』註釈)とされ、高松塚古墳の壁画に描かれた男女の持つ細長い棒も打毬(ホッケー)のスティックと考えられる。
日本の「国」の歴史を漢・隋・唐や聖徳太子から書き起こし、平氏滅亡までを描いた橋本治の大河小説『双調平家物語』には、この打毬の様子が想像力豊かに描かれている。
本家の『平家物語』では、南都の僧が打毬から発展した「毬打(ぎっちょう)」の玉を平相国(へいしょうごく)の頭と名づけて「打て」「踏め」と弄び、それに激怒した清盛が東大寺焼き討ちを命じたという。
この毬打というチームプレー的な競技に対して、平安貴族の間で流行したのが個人プレー中心の蹴鞠だった。その情景は、『源氏物語』若菜の条にも、生き生きと描かれれいる。
澁澤龍彦『唐草物語』のなかの一編『空飛ぶ大納言』には「ひとたび蹴りはじめると、妖魔にでも取り憑かれたかのごとく病みつきになって」しまう蹴鞠の魔力が、御堂関白道長から数えて五代目の後裔・大納言成通(なりみち)卿の妙技を通して描かれている。
大きな食卓の上に沓をはいたままのぼり、足をあげて何度も鞠を蹴っても、沓にあたる鞠の音だけが聞えて、食卓にぶつかる沓の音は少しも聞こえなかった。並んで座らせた侍の肩の上を順々に、沓をはいて鞠を蹴りながら渡り、法師のところは肩ではなく頭を踏んで通ったが、法師は「頭に笠をかぶった時と、まあ似たような感じ」だったと答えたという。
そんな蹴鞠の名人が、一千日間、一日も欠かさず鞠を蹴ってやろうと願を立て、満願となった日に、夢のなかで三人の童子と出逢う。彼らは鞠の精で、「飛翔願望」のシンボルである鞠とともに空を飛びたいと切望する成通に、実際に軽々と空を飛んでいた子供の頃の姿を見せる……。
この幻想譚は現代日本のサッカー事情につながる。世界の一流国に伍する闘いをなかなかできない日本サッカーだが、フリースタイル・フットボール(一人で行うリフティング競技)では、成通卿の末裔とも言うべき日本の若者が、一昨年見事に世界一となった。
明治初期、陸上、水泳、テニス、野球、サッカー、ラグビー、ゴルフ……等々、あらゆるスポーツが伝来したなかで、瞬く間に抜群の人気を得たのは野球だった(その様子は夏目漱石『吾輩は猫である』にも活写されている)。
種子島に鉄砲が伝来して以来、わずか半世紀後に戦国時代(市民戦争)を終えた日本では、「ヤアヤア我こそは……」と名乗りをあげて闘うイメージがいつまでも強く残り、投打の対決という個人プレー中心の野球が最も理解しやすかったのだろう。
Jリーグ発足以来サッカー人気が急上昇したとはいえ、チームプレーの毬打が消え、個人プレーの蹴鞠を伝統文化として残した日本人は、今も個人プレーに魅力を感じ、力を発揮するのかもしれない。 |