「スポーツ(野球)は筋書きのないドラマだ」
という言い方が、わたしは大嫌いだ。
スポーツの感動を表現するのに「ドラマ」をひきあいにだしながら、「スポーツはドラマ以上におもしろい」という、まったく根拠のない、尊大でエゴイスティックな独断が、この言葉には感じられる。
スポーツを語るのに「劇的(ドラマチック)」という形容詞を用いることはあっても、なにも「演劇(ドラマ)」そのものをひきあいにだして比較する必要はないだろう。スポーツから感じる感動と、演劇から醸しだされる感動では、似通った面は存在しても、両者の優劣を語ることなどできないはずである。
だれがいいだしたのかは知らないが(おそらくスポーツ好きで、演劇に興味のない人間がいいだしたのだろうが)「スポーツは筋書きのないドラマ」という表現は、スポーツから得た感動にたいする表現力の欠如と、演劇にたいする無知をさらけだしたうえに、スポーツも演劇もおとしめて語った、きわめて低俗な言葉というほかない。
スポーツ新聞が、自宅の居間で夫人と乾杯している勝利投手の写真を一面トップにのせたり、勝利を手にしたチャンピオンに汗と涙の「三文ドラマ」をもとめたりするのも、このような言葉が流布してしまった結果といえるかもしれない。
しかもこの言葉は、「筋書きがない」という部分に妙な価値が付与され、「筋書きがある」よりも「筋書きがない」ほうが、あたかもすばらしいことであるかのような印象を与える。これほどひどい、演劇を馬鹿にした言葉もあるまい。
シェークスピアの戯曲は、たとえ筋書きがわかっていても、何度読み返してもおもしろい。歌舞伎の『勧進帳』は、何万回見てもおもしろい――などと、あらためて指摘するまでもなく、「筋書き」とは演劇を見たり戯曲を読んだりするうえで、ごく一部の要素でしかない。いや、演劇(戯曲)とは、再演(再読)が可能であると評価されてはじめて、その価値が認められるものであり、心を打つ台詞や機知に富んだウイット、さらに、それらの台詞が口にされるリズムや登場人物の設定などが「筋書き」以上に重要な要素といえる。
最近、ケン・キージーの小説『カッコーの巣の上で』の戯曲版である『カッコーの巣の上を』(デール・ワッサーマン脚色、小田島雄志・若子共訳、劇書房)を読んだ。
この作品は、わたしの大好きなドラマで、小説は二度読み、映画(ビデオ)は数え切れないくらい見なおし、ジャック・ニコルソンの台詞をおぼえるくらい「筋書き」を熟知している。が、それでもあらためて胸を熱くした。
映画のようには舞台転換を自由にできず、また個々の俳優の顔をクローズアップして、その心理を暗示的に描写することも不可能な「舞台」という制約のなかで、いっそう緻密に再構成された台詞(会話)が、小説や映画に劣らない見事なクライマックスをつくりあげていた。
かつて演劇をこころざし、いつの間にかスポーツ・ライティングの世界に転じたという個人的な思い入れもあるが、スポーツに少々飽きたときに見る演劇や、読む戯曲は、なかなかに爽快な時間を保証してくれるものである。
だからわたしは、ふと時間の空いたときなど、書棚にある演劇の本に手をのばす。
プロ野球がつまらない内容の試合ばかりつづいたときや、桑田事件のような不愉快な出来事にうんざりさせられたときには、『ニール・サイモン戯曲集』(早川書房・全四巻)の『プラザ・スイート』や『おかしな二人』や『裸足で散歩』を読みなおすと、胸がスカッとする。寝付けないときには、『ハロルド・ピンター全集』(新潮社・全三巻)の『料理昇降機』や『管理人』を読みなおし、それまで気づかなかったドラマチックな意味合いを新たに発見して満足し、心地よい眠りにつけることもある。
しかし最近は、戯曲を読みたくなると、マイク・タイソンがバスター・ダグラスに敗れた東京ドームでの試合のビデオに手をのばすことが多くなった。そのビデオは、もう五十回くらいは見たが、まだまだ新しい発見があって、じつに飽きない。じつはスポーツも、「筋書きがないからおもしろい」というわけではないのである。 |