ソルトレイクシティで行われた冬季五輪の開会式や閉会式を見ただけでも、アメリカという国が、いかに餓鬼っぽい国であるか・・・、否、歴史の浅い国であるか、ということがよくわかった。
もっとも、長い歴史を有する国でもその歴史に無知であったり、無視したりすれば同じこと。せっかくの「長い歴史の知恵」による「学習効果」も機能することなく、稚気にあふれた感情論に終始することになる。
植村秀樹『自衛隊は誰のもの』(講談社現代新書)は、講和条約、日米安保条約の締結という時代背景のもとで、警察予備隊が生まれ、それが保安隊、自衛隊へと変化した経緯から書き起こし、冷戦と高度経済成長下での数次の防衛計画、沖縄基地問題、「三矢事件」、「三島事件」を振り返り、ポスト冷戦時代――湾岸戦争から九・一一テロ以降の今日の問題点を確認する。
ノリエガ、フセイン、ビンラディンをかつて後押しした《アメリカの対外政策は、目先の国益を追求するあまり、中長期的な視点に立って物事を考えることができず、その結果として大きな問題を生みだしてきた》
《自由が攻撃された、民主主義への挑戦だ、とブッシュは強調したが、そうではない。アメリカの経済のシンボルと軍事力の総本山が攻撃されたことからみても、狙われたのはアメリカ合衆国そのものであることは明白》
《湾岸戦争に百三十億ドルも出しながら評価されなかったというが、自衛隊を出さなかったことではなく、そこに何の理念もなく、語るべき言葉を持たなかったところにこそ問題があった》――「自衛隊の歴史」を知れば、これらの文章に誰もが首肯し、そこで初めて「未来について思考する」ことができる。
菊池良生『傭兵の二千年史』(同)《(ヨーロッパの)歴史の転換点に必ず出現した》《身捨つるほどの祖国》を持たない「傭兵たち」の歴史を、古代ギリシアから近代前夜まで振り返り、《「途方もない数の人々が自らの命を投げ出そうとした」ナショナリズムはどのようにして出来上がったのか?》という問いに対する回答を得ようとする。
《ヨーロッパは大多数の人間が食うために生きるために、傭兵として戦場に身をさらす必要のない国民国家という組織を作り上げた》ところが、今度は国民国家による戦争が幕を開ける。とはいえ、長い歴史のなかで、人間は確かに進化しているようにも思える。
吉村武彦『聖徳太子』(岩波新書)は、謎と伝説に包まれた太子の、その謎と伝説を剥ぎ取り、素顔を浮き彫りにしようとする。が、むしろ、それらの謎と伝説の生まれた経緯(「聖徳太子像」の形成過程)が面白い。
親鸞も、徳川幕府も、明治政府も利用した「太子像」。
「長い歴史」も使いよう・・・だが、批判も誤解も含めて、多面的な使い方ができるだけ「短い歴史」よりも素晴らしいとはいえよう。 |