本書『ふたつのオリンピック 東京1964/2020』は、ロバート・ホワイティングRobert
Whiting氏が書き下ろした“TWO OLYMPICS”の全訳である。
とはいえ、本書の原書にあたる英語版は、まだ推敲作業と編集作業の真っ最中で、出版の予定日も定まっておらず、“TWO OLYMPICS”というタイトルも仮題で、今後変更される可能性もあるという。したがって本書は、ホワイティング氏の原書“TWO
OLYMPICS”の翻訳書というよりも、“日本語版オリジナル”と呼ぶほうが適切といえるだろう。
新たに作成中の英語版では、ページ数の関係などから、米空軍諜報部時代で活動していたころの詳細な出来事や、力道山対デストロイヤーの一戦を東京の喫茶店のテレビで観戦する様子など、さまざまな部分がカットされ、本書の三分の二くらいの長さになる可能性が高いという。それはアメリカの読者の興味をあまり惹かない部分を削除するという理由からの処置らしい。が、ならば英語版とは無関係に“生原稿”を先にいただき、日本語版として翻訳出版できたことを、心から喜びたいと思う。
先のオリンピックを迎えるころの1960年代の「東京のナマの姿」を、ホワイティング氏は自分の目で見たまま聞いたままに、見事に活写している。冷戦時代のアメリカとソビエト連邦(現ロシア)が核戦争寸前の危機に陥ったときの在日米軍の様子も、その周辺にいかがわしい店が数多く並んでいたことも、「汚穢都市」と呼ばれたほど汚れていたが、オリンピック開催に向けて活力に充ち満ちていた東京の街の姿、ひとびとの姿も……。それらの細かい描写は、往事を懐かしく振り返ることのできる年配者の読者にとっても、初めて知る当時の事実を驚きとともに読み進む(に違いない)若い読者にとっても、すべて興味津々の内容にちがいない。そのすべて訳出することができたいま、私は大きな満足感に浸っている。
私は、ロバート・ホワイティングという「アメリカ人アウトサイダー」が体験した東京の半世紀の記録を、日本語に残すことができたのだ。それは多くの日本人にとっても、貴重な記録、かけがえのない財産といえるものに違いない。
改めて説明するまでもなく、本書はロバート・ホワイティング氏の――という以上に、私の大親友でもあるボブさんの――自伝的ノンフィクションである。それは、ビルドゥングスロマン(自己形成小説・成長小説・教養小説)と呼ばれている小説のジャンルの実録版(ノンフィクション)と言うことができよう。
北カリフォルニアの小さな田舎町ユーレカから「とにかく出ていきたい」と心に決めた若者が、軍人(諜報員)として日本に配属され、1964年のオリンピックを前に大変貌を遂げつつある大都会・東京にやってくる。若者は、そこでさまざまな出来事や人物と遭遇し、東京の魅力を次つぎと発見し、両親から「おまえは日本狂い(ジャップラヴァー)になってしまったのか」と嘆かれるほどに東京に魅せられ、軍隊を除隊したあとも東京に住み着いてしまう。それはまさに、アルキメデスが金の純度を測る方法を発見したときに叫んだとされるギリシャ語「ヘウレーカ=我、発見す!」に由来する英語の都市名Eurekaと名づけられた街の出身者に相応しい行動のようにも思われる(その都市名は、カリフォルニアから大量の金鉱が発見されたことにちなんで名づけられたらしい)。
そして東京で見聞きした日本のプロ野球や、東京の裏社会で蠢く外国人や日本人の出来事を見事に描写してノンフィクション作家として成功。東京の土地を踏んで約半世紀後の2020年に二度目の東京オリンピックを迎えるまでのすべての体験を、みずからの歩みと東京という大都会の変貌を重ね合わせて描いたのが本作である。
その間の東京には(そして日本やアメリカにも)、じつにさまざまな出来事が次つぎと生起した。社会的には高度経済成長、ヴェトナム戦争、70年安保闘争、オイルショックとニクソン・ショック、それを乗り越えてバブル経済を迎え、ジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれたかと思った途端、バブル崩壊と失われた十年、二十年……そして東日本大震災……。ほんの少し思い出してみるだけでも、その激動ぶりに驚かされる。
そんな社会の動きのなかでボブさんも、本書に書かれているとおり、英語の教師としてさまざまな日本人と出逢い、上智大学にも通い、財界人や政治家とも出逢い(読売新聞の渡邉恒雄氏の家庭教師も務め)、沖縄出身のヤクザの若者や在日コリアンの若者とも友達になり、ヤクザの親分の招待も受け、日本人女性との恋愛も(そして失恋も)経験し、東京に暮らす外国人ジャーナリストや有名無名の多くの外国人とも交流し、取材を通じて野球選手との交流も生まれ、その交流が原因で一部の球団から出入禁止の処分を受け、さらに日本政府からも睨まれ……。
しかし、そんな激動の戦後史のなかでの激動の個人史以上に、私が改めて本書を訳出しながら心に残ったのは、ボブさんが赤提灯で酒を呑むシーンだった。「アナタハ、キョジンふぁんデスカ?」などと話しかけながらボブさんは、いろんな日本人と酒を酌み交わす。さらに狭いカウンターでひとり熱燗の徳利を傾けながら、テレビの星飛雄馬が歯をくいしばる姿を見て涙を流し、ひとりユーミンの歌声を口ずさんで涙ぐむ。それこそボブさんならではの素晴らしいノンフィクション作家としての資質である、と私は確信している。
ノンフィクション作家、あるいはジャーナリストとは、取材対象を客観視するために、できるだけ高高度から(鳥の目で)対象物を冷静に視野に収める作業を行う人種であるということができる。が、ボブさんはそんなノンフィクション作家が絶対に持つべき目を有していると同時に、地面にしっかり足を着けて(虫の目で)対象物に迫ったり、超低空飛行をつづけて物事を詳細にとらえることのできる人物なのだ。U2偵察機のように超高高度を飛行して物事を見ることも難しい作業だろうが、超低空飛行を長く墜落しないで飛行しつづけるというのもまた、技術的に困難という以上に、持って生まれた資質というものが必要となるだろう。
そんな天性の資質を有している(星飛雄馬やユーミンに涙する)ボブさんだからこそ、上智大学で日本の戦後の政治史を学びながらも、それをテーマに選ぶことなく、日本のプロ野球や、裏社会(アンダーワールド)を自然(ナチュラル)をメインテーマに選ぶことになったに違いない。
私がボブさんと初めて出逢ったのは、たしかフリーのスポーツライターとして仕事を始めて四〜五年を経た1981年頃のことだった。〈週刊ポスト〉の書評でアメリカのベースボール・ライターとして著名なロジャー・エンジェルの作品『アメリカ野球ちょっといい話』(村上博基・訳/集英社)を取りあげるというので、それなら『菊とバット』の著者であるロバート・ホワイティング氏に、作品についての解説をしてもらわねば……と編集者を説得し、赤坂のマンションまで出向いたのが最初だった。
<中略>
十歳年上の大先輩ではあるのだが、ボブさんと私はかなりよく似たところがあると感じている。
某球団や野球界から立ち入り禁止を食らったり、日本のメディアやスポーツ界のエライさんから睨まれたりするところも同じだが、別に私は(そしてボブさんも)喧嘩っ早くてそうなったわけでもなければ、話題づくりを狙ってやったわけでもない。まったくナチュラルに、自分が正しいと思っていることを書いたり言ったりすると、なぜかぶつかってしまう組織や個人が存在してしまうのだ。これはボブさんが本書で書いているとおり(ふたりの)「持って生まれた性癖」としか言い様がない。
また本書を訳出しながら、冗談が大好きで、真面目な話のなかにもついついジョークを口にして(若いころは)よく失敗したところもそっくりだな、とひとりで吹き出してしまったが、それだけではない。
1964年の東京オリンピックに、強烈な印象を受けたのも同じだ。私は小学六年生で、家が京都祇園町にあった電器屋だったので町内中のひとびとが三十人以上我が家の店頭に集まり、当時京都に三台しかなかったカラーテレビの一台の画面を見つめた。そのとき我が両親をふくむ多くの大人たちが、笑顔のなかでボロボロと大粒の涙を流していたことが、トラウマといえるほどの大きな衝撃として刻まれた。そして十八歳のころになると私も、ボブさんがユーリカの町を出て行きたいと切望したのとまったく同じように、自分の生まれ故郷の京都の祇園町という土地がいやでいやでたまらなくなり、出て行くことばかり考えるようになった(そこは都会ではあっても、女性が中心の人間関係がやや複雑な田舎町のような土地柄ですからね、そのときの事情と心情は、『京都祇園遁走曲』という自伝的小説に書きました)。そして東京という大都会に出てきてフリーランスの物書きになったわけだが、そこでボブ・ホワイティングさんのようなナチュラルに強い芯のある尊敬できる先輩に出逢えたことは、私にとって最高にラッキーなことだったといえる。
本書では、ボブさんが日本人の仕事仲間たちと酒を酌み交わして歌をうたうシーンがあり、私も、ボブさんと酒席で一度だけ一緒にフランク・シナトラの『New
York, New York』や『マイ・フェア・レディ』の『君住む街角On The Street Where You Live』をうたったことがある。が、別の酒席でいろんな歌の話題を話し合ったとき、驚かされたのは(本書にも出てくるが)ボブさんが、「ワタシノ
イチバン スキナ ウタハ『カゼ』デスヨ」と言ったことだった。たしか大船のバーで一緒に呑んでいたときのことで、そのときふたりで生ビールのジョッキを合計三十杯以上を平らげ、バーテンダーから「うちの店の新記録」と呆れられたことも憶えている。が、それ以上にボブさんの口にした『風』という歌の題名に、私は唖然とした。その歌が、はしだのりひことシューベルツのメキシコ五輪(1968年)のデビュー曲(作詞はフォーク・クルセイダーズで同僚だった北山修。作曲は端田宣彦)であることはもちろん知っていた。が、ボブさんが、その曲を「イチバンスキ」と言うのは、かなりセンチメンタルにすぎるというか、ハードなノンフィクション作品を次つぎとものにしたジャーナリストとしては、相当の手弱女(たおやめ)ぶりのようにも思え、飲みかけていたビールを、オットットットと口からこぼしそうになってしまったことを憶えている。
「デモ、アノ歌ハ、ホントニイイ歌デスヨ。ソウハ思ワナイノカ?」……
<後略>
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