<十五分間で堪能する長編小説の愉しさ>
<名作のエッセンス、読み所はここです>
と、帯に書かれている本書は、『チボー家の人々』『北回帰線』『失われた時を求めて』『魔の山』『車輪の下』『女の一生』『戦争と平和』『嵐が丘』『ファウスト』『ドン・キホーテ』『エセー』など、古今の名作とされている西洋長編小説全六十二編を、すべて同じ長さ(四百字原稿用紙約十七枚)に“要約”したものである。
とはいっても、ただ単に、粗筋が詳述されているのではない。主要な場面の情景描写や人物描写、さらに物語の鍵となる会話等の文章が、そのまま生かされ、読者が小説そのものを読んだような気になるまとめ方がされている。
これが『週刊新潮』誌に連載されていたとき、わたしはそのネライ−−“本物”を読みもせずに即席の教養として知ったかぶりをできるいかにも週刊誌的な企画−−のあざとさに、少々鼻白む思いがしたものだった。さらに、そう思いつつも読んでしまう自分のセコさと浅はかさに自己嫌悪を感じたものだった。
ところが、それが一冊の本にまとめられ、あらためて読み直してみると、そのおもしろさに愕然とさせられた。
一九九五年に発表されたナボコフの『ロリータ』から紀元前八〇〇年頃のホメーロスの『オデュッセイ』にいたるまで、順々に歴史をさかのぼる編集の見事さもくわえられた結果、「名作」を次からつぎへと読みすすむなかで、『世界文学』を亜音速の高層ジェット機に乗って成層圏から俯瞰するような醍醐味をあじわうことができ、一作一作を熟読するときの愉しさとはまたべつの快感を得ることができたのである。
そうして(こういう読み方は「知ったかぶり」をしたい読者にはお奨めできないが)十時間あまりで二千三百年の人間の精神の上空を一気に飛びぬけたあと、「世界文学」が(というより世界のあらゆる時代の作家たちが)いかに多くの精神的葛藤をくりかえし描きつづけてきたか、ということに気づかされ、しばし呆然とさせられた。
正義や真実の曖昧さ、愛情や恋情の不確かさ、不倫、不和、憎悪といった心の揺れ、人間関係の軋轢、蹉跌、解脱不能の煩悩とでもいうほかないもののすべてが、古今を問わず、すこしばかり舞台をかえ、すこしばかり形をかえただけで、何度も何度も描かれつづけてきたことに圧倒されてしまったのである。
人間とは、なんと救われがたい存在であることか。
このような要約にたいしては、著者(要約者)自身が、<してはいけないことかもしれません。「非文学的」なことだと叱られるかもしれない>と書いているように、顔をしかめる人もいることだろう。
が、その手並みがあまりにも鮮やかな結果、<この要約がきっかけとなって、長い長い小説を読んでみようという読者があらわれれば>という著者のきわめて控えめな希望以上に、本書は、原典の肌触り(もちろん翻訳ではあるが)をのこしたまま、まったく異なる別乾坤を提示した新たな“作品”に昇華している、といってもけっして過言ではないだろう。
その“作品”の提示した世界とは、パロディとかパスティーシュというようなものでもなければ、優れた解説書や入門書といった類のものでもない。わたしは、この快著によって、要約とは批評の一形態である、ということに気づかされた。すなわち本書は、世界文学史に関する壮大な評論集(書評集)なのだ。これは、翻訳書だけでなく、日本の古典文学、近代文学にも、もちろん可能な方法といえるにちがいない。
|