わが家には一冊も本がなかった――というのは、けっして大袈裟な言い方ではない。物心のついたころになって目にした本といえば、ラジオやテレビの修理用マニュアルか、松下幸之助の伝記くらいなものだった。小さな電器屋を営んでいた父親は、朝から晩まで働きづめで、本を読む暇などなかったようだった。
しかし、だからといって、困ったとか、寂しかったというような思いはなく、毎日学校が終わると鞄を放り出して近くの禅寺へ走り、そこの境内で草野球ばかりやっていた。
わたしの父は、本が嫌いというわけではなかった。それどころかむしろ大好きで、おまけに学歴がなかったから逆に活字信奉者になったのか、電器屋のくせに口を開くと「テレビなんか見るな、本を読め!」と口癖のようにいっていた。
口だけではなく、父はよく本を買ってきてくれた。電気工事を終えて家に帰ってきたときなど、真っ黒い手でペンチや電線の入ったズタ袋のなかから真っ白い紙袋をとりだし、「これ、おもろそうやから読んでみい」などといいながら、姉とわたしにむかって本を放り投げた。
そして姉は、『少年少女日本名作選集』とか『子供版日本の歴史』といった本を、わたしは『十五少年漂流記』や『ジャングルブック』や『ルパン』や『ホームズ』を、楽しく読んだ。
そんななかに『ドリトル先生航海記』があった。小学4年生のころ、いまから25年くらい前の話である。
ドリトルは、それまで読んだ本とまったく印象が違っていた。
十五人の少年が漂流する話を読んだときは、自分も筏(いかだ)に乗って大波をかぶった気分になった。ルパンもホームズも、子供心に作り話だとはわかりつつ、マントをまとった怪人がとつぜん目の前に現れ出るのではないかという思いがして、夜中に便所へ行くのが怖くなったりした。
ところが、動物と話のできるドリトル先生などというのは、まったくありえない「嘘」だった。しかも、それは子供にもすぐに「嘘」とわかる「身近な嘘」であり、「こんな阿呆な話があるかいな・・・」と、小生意気なことを思いながら読むほかなかった。
ところが、その「嘘」が、どんどん広がり、近眼に悩む馬に眼鏡をつくって助けてやったり、ホームシックにかかったサーカスのアシカを海へ帰してやったり、前にも後ろにも頭がある珍獣があらわれたり、火山の噴火で半分に割れた島をクジラに押させてくっつけたり、さらに巨大な蝸牛(かたつむり)の殻のなかに入って航海をする・・・と、物語がおおきく展開するにつれて、最初の「嘘」などどこかへ吹っ飛んでしまった。
そしてドリトル先生の、身近でいて奇想天外な魅力にすっかりとり憑かれてしまったわたしは、ドリトル先生シリーズのほかの巻も読んでみたくなり、「野球が嫌いになったんか?」という友達や、「どっか身体でも悪いんか?」という母親を無視して、毎日小学校の図書館にこもり、全12巻を次からつぎへと読みまくったのだった。
ドリトル先生は、野球よりも、長嶋茂雄よりも、力道山よりも、若乃花よりも、もっとおもしろいものが世の中にある、と思わせてくれた最初の本となった。なにしろ、巨大な蛾の背中に乗って、月にまで行ってしまうのだから・・・。
もっとも、そのころから父は、仕事の帰りに本を買ってきてくれなくなった。あまりに度を超すのもいけないと思ったのか、本に熱中するきっかけさえつかめればそれで十分と思ったのか、その心中はいまだにわからない。が、本を読む楽しみを教えてくれた父とドリトル先生(英語の発音では「ドゥーリトル」=小さなことしかできない)に、わたしは、いまも心の底から感謝している。 |