4年前(1993年)、一軒家に引っ越した。すると1か月くらいたったある日、当時小学3年生だった次女が、一匹の猫を拾ってきた。
学校からの帰り道、電子柱の横に置かれた段ボール箱のなかで、ミャアミャア泣いていた。だっこしてあやすうちに馴れてしまった。箱にもどそうとしたが、すぐに箱を飛びだしてついてくる。仕方ないから連れて帰った……というのだが、そんな話はウソッパチ。確信犯であることは、すぐにわかった。
それまで、犬や猫の飼えないアパート暮らしがつづいた。だから、引っ越しの決まったときから、四六時中といってほど、犬や猫を飼う話が、わが家のテーマになっていた。
ハスキーがいい。いや、レトリバーだ。コリーだ。和犬だ。柴犬だ。やっぱり猫のほうがいいんじゃないか。ヒマラヤンだ。ペルシャだ。シャムだ……。女房と3人の子供たちが、そんなことを口々にしゃべるのを、私は黙って聞きつづけた。
意見がなかったわけではない。とりあえず、犬かな、と思っていた。が、なぜ犬なのか、その理由が、自分でも、よくわからなかった。
わたしは、犬よりも猫のほうが好きだ。主人に忠実で、「ハウス!」といわれれば自分の小屋に入る犬よりも、アリスの世界に出てくるチェシャ猫のように、勝手気ままに振る舞う猫のほうが、あきらかに「好み」なのである。なのに、飼うならば犬のほうが好ましいように思えるそんな自分の気持ちが自分でも理解できないまま、意見は保留にしつづけていた。当然、行動も保留のままだったから、しびれを切らした次女が、野良猫を拾ってきた、というわけだった。
見れば、鼻筋の通ったなかなかの好男子である。黒い毛並みも悪くない。ホワイトハウスに住む猫と同様、白いソックスまではいている。おまけにホワイトハウスの猫は2足だが、わが家にやってきたのは、野良のくせに4足である。まあ、いいか……と次女に向かって答える間もなく、小学5年生の長女が抱きあげ、幼稚園に通っていた長男と奪い合いになり、女房が餌を与え、まだ赤ん坊の野良猫は、わが家の一員となった。
家長の権限として「フィガロ」と名付けた野良は、あっという間に成長した。と同時に、わたしが猫好きでありながら、なぜか犬を飼いたいと本能的(?)に判断していた理由が、理解できるようになった。
フィガロは、好きなときに家を出て、どこかへ勝手に遊びに行く。そして、好きなときに帰ってくる。ときには蛇や雀をくわえてくる。そのたびに、わが家は大騒動になる。おまけに、襖や壁で爪研ぎをする。板を用意してやっても、襖紙や壁紙をぼろぼろにする。そのたびに、女房や娘の大声が響く。その声にも知らん顔のフィガロは、いちばんいいソファの上でごろりと寝そべり、うたた寝をする。
ある日には、仕事部屋に入ってきたフィガロが、机に向かって原稿用紙と格闘しているわたしの椅子のすぐそばに座り、少し頭を傾けながら、こういった。
「おまえは、何をあくせく、つまらないことに精を出しているのだい?」
そのとき、わたしは気づいた。
わたしは、猫が好きだったのではなかった。わたしは、猫になりたかった。わたしが、猫になりたかったのだ。だから、猫は、飼いたくなかったのだ。
嗚呼! フィガロがうらやましい!
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その後、わが家には犬(佐吉)も家族の一員として加わりましたが、こいつも、野良の貰い犬です。猫も犬も、野良がいいですな。しかし、家族の一員がいなくなるのは寂しいものです。 |