第9回 スポーツする身体 パブロ・ピカソ『マタドールの死』
F1レースを大好きになり、何度かサーキットに足を運び、テレビ中継を見続けたことがある。巨大な金属製のマシンが、地上最大と思える轟音を轟かせて、疾走する。その響きと輝きを身体で感じるだけで、快感は極まった。
そしてある日、一人のドライバーが壁に激突して死んだ。
そのとき私の脳裏をよぎったのは、ピカソの描いた「マタドールの死」だった。
音楽、料理、ワイン、ファッション……などの文化と、現代テクノロジーの粋を結集して催されるF1。それは、現代社会の祝祭だ。
そして闘牛も、衣裳、儀式、祈り、音楽、太陽……と、スペイン文化の粋を集めた祝祭である。
一方は、ガソリンの臭いを撒き散らし、他方は、牛の血臭に包まれ、そこに時折ドライバーやマタドールの血も混ざる。死と隣り合わせの祝祭。
両者は、スポーツの埒外に存在する営みとも言える。それだけに祝祭の色彩は、一層色濃く、多くの人々を昂奮と官能の世界へと導く。
F1マシンの未来性と猛牛の原始性。
ポスト・モダンとパンセ・ソバージュの邂逅。
牡牛の角に刺され、跳ねあげられたマタドールの顔は、恍惚感に満ちているようにも見える。
はたしてセナはどんな顔で、この世を去ったのか……?
最近のF1は安全対策が進んだ。
今スペインでは闘牛禁止の声もある。
祝祭の美と迫力はピカソが残した絵で十分だろう。
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第10回 スポーツする身体 ベン・シャーン『ハンドボール』
画家は「見えないもの」を絵に描いている、と断じて間違いないだろう。
人間の顔や姿を描きながら、実は人間の心を描く。
建物や山や川を描きながら、実は空気や風を描いている。
その人間が、どんな性格でどういう考えをする人間かを描き、その都会や村が、どんな空気に満ちた世界であり社会であるかを描く。
具体的なモノを描いて、抽象的なナニかを表す(もちろん抽象的なナニかをそのまま描く場合もあるが)。それが、画家の仕事というべきだろう。
ベン・シャーンの描く都会や人間は、間違いなく現代である。空気は乾いて冷たく、混雑したクルマや人混みで騒々しいはずの大都会が、なぜかひっそり静まり返ってる。
それは都会に暮らす人々の心象風景にほかならない。
都会人の孤独。現代人の寂寞感。
そんななか、ベン・シャーンの描いた都会人はスポーツをする。仕事を中断しての昼休みか。労働者と思しき男達が何人か、工事中のフェンスに向かってボールを掌で打ち合う。あるいはバスケットボールを奪い合う。
しかし歓声は聞こえない。男達は確かにスポーツに熱中している。よく見ると一心不乱。だが、さほど楽しんでる風ではない。
彼ら都会人は寸暇を惜しみ、僅かなスペースを見つけてスポーツを行う。
それは、現代社会のなかで、人が生きている微(かす)かな証(あかし)なのかもしれない。 |