<読者からのメール>
日本プロ野球にも、その年の最も優れた投手に贈られる賞として沢村賞がある。 ただしサイ・ヤング賞はリリーフ投手も受賞対象だが、沢村賞は先発投手限定である。
沢村賞はサイ・ヤング賞より古く1947年に設立されているが「沢村賞はサイ・ヤング賞をモチーフにして作られた」という勘違いも日本では見受けられる[1]。
[1] 一例として玉木正之著『プロ野球大辞典』(新潮文庫、1990年)に 「沢村賞という投手に与えられるタイトルですら、アメリカのサイ・ヤング賞にならったものだ。」(P209)という記述がある。
どういうことですか??
<小生の返信>
ホームページ経由のメール拝読。
拙著『プロ野球大事典』が出版された1990年(3月)は、ちょうど前年から沢村賞がパ・リーグの投手にも与えられることになった時期で、確か、その年のオフには野茂英雄投手が受賞したように記憶しています。
それ以前は、小生や、拙著の執筆に協力していただいた宇佐美徹也氏(記録の神様とも呼ばれた当時報知新聞記録部長の方です)などが、沢村賞がセ・リーグの投手だけに贈られるのはオカシイ(沢村は1リーグ時代に活躍した投手だから)という意見を盛んにマスコミで機会あるごとに主張していたのですが、日本野球機構がそのように沢村賞を両リーグの優秀な先発投手から選ぶようになったとき、なぜか多くのマスコミが「サイ・ヤング賞もナショナル・アメリカン両リーグから選ばれている」と報じたところから、沢村賞という投手に与えられるタイトルですら、「アメリカのサイ・ヤング賞にならったものだ。」と書いたのです。
今となっては少々ワカリニクイ表現となったかもしれませんが、当時(1989年)は、宇佐美さんと「沢村賞のほうが古いのに……」と、苦笑していたものです。したがって、どのメディアの記述かは知りませんが、<「沢村賞はサイ・ヤング賞をモチーフにして作られた」という勘違いも日本では見受けられ>その<一例として>拙著が取りあげられているのは、少々心外でもあり、残念でもあります(同書の「沢村栄治」や「沢村賞」の項目まで読んでいただければ、「サイ・ヤング賞をモチーフに…」などというバカな理解をしていないことは、理解していただけると思うのですが……。
拙著(パロディや冗談を基調にした本)の宿命と言うべきでしょうか、コノ本を読んで、「野球政治学者」を紹介してくれ……と連絡してきた新聞記者もいるくらいで、また時代の変遷とともに、常識も変化することですから、注意しなければならないな…と自戒しているところです。
尚、サイ・ヤング賞はリリーバーも対象にしているが、沢村賞は先発だけ……というのは、両投手とも先発が中心だったとはいえ、沢村がヤング以上に先発中心で、ヤングは結構リリーフも多かったことが考えられます。が、日本のプロ野球が、まだリリーフ投手よりも先発投手のほうを「価値が上」と考えている証拠、ととらえることもできるかもしれません。
以上、小生の考えを述べさせていただきました。 古く既に絶版になっている小生のデビュー作を読んでいただき、ありがとうございました。
○○○○○様 from玉木正之
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<読者からのメール>
拝啓 玉木正之さま 侍史
玉木さんの持説に、「『日本書紀』皇極天皇紀にある、大化改新の発端となった中大兄皇子と中臣鎌足の出会いのきっかけとなった《打毬》とは、蹴鞠(≒サッカー)ではなく、毬杖(ぎっちょう≒ホッケー)である」というものがあります。
この根拠は何でしょうか?
(1)玉木さんが、どこかでこの件にまつわる考証を書いている媒体(紙・ネットなど)ありましたら、ぜひとも教えてください。
(2)それがないのであれば、どこかで表明してほしいと思います。ぜひとも教えてください。
歴史学者の故・坂本太郎氏が校訂・校注した岩波文庫版の『日本書紀』では、いくつかの根拠を示して、これは「蹴鞠」なのだとしています。 一方、小学館・新編日本古典文学全集版の『日本書紀』で、《打毬》を「毬杖」としていますが、こちらは深い考証なしに断定していたと思います。
ぜひとも、玉木さんの見解を知りたいのです。
最後に、「而候皮鞋随毬脱落(皮鞋の毬の随〈まま〉脱け落つるを候〈まも〉りて)」、靴が毬といっしょに脱げていった…という記述は、「毬杖」ではどういう解釈になるのでしょうか?
以上、お手数ですがよろしくお願いします。
敬具
<小生の返信>
ホームページ経由のメール拝読。
日本書紀皇極紀にある『打鞠』についてのお問い合わせですが、残念ながら、原稿執筆当時の資料を片付けてしまって、正確に引用文献をお示しすることができませんので記憶を掘り起こします。御容赦下さい。
それは2001年に書いた『スポーツと日本人』(のちに『スポーツ解体新書』として出版)を上梓したとき(同時の同題名でNHK教育テレビで話したとき)に詳しく調べたもので、記憶では、河出書房から出版されていた本が最初のきっかけになったと記憶しています。
その内容は、まず、「蹴鞠」(けまり)というものが日本に渡来したのは、平安初期
(早くても奈良後期)であること、そして、大化以前に中国大陸より渡来した「球戯」は、『打鞠』『鞠門』等、いろいろあったようですが、すべて、鞠を足で蹴ったり、棒で叩いたりして、ゴール(門)へ運び入れることを争ったものであったこと、などが、記されていたと記憶しています。
(尚、資料はまとめて、大学の小生の研究室に移して保管してあるはずですので、
いつか機会があればきちんと見直してみたいと思います)。
坂上太郎氏の示された大化期の「打鞠」が「蹴鞠」である「いくつかの根拠」を小生は知りませんが、ホッケーとサッカーの混合のような団体競技だった「打鞠」(くゆるまり)が、集団リフティングのような個人遊技に近い「蹴鞠」に発展する可能性はあるとしても、それが流行したのは平安期で(さらに、前述のように、「蹴鞠」は新たに大陸から日本に伝来したとも書かれていたと記憶しています)、この大化期の「打鞠」(くゆるまり)を、「蹴鞠」(けまり)と呼んでしまうのは、のちの平安期以降に貴族の間で大流行した蹴鞠(そして、現在まで保存されている蹴鞠)がイメージとして存在する多くの日本人には、誤解を誘発しすぎると思います。
実際、大化期の打鞠を、平安期の蹴鞠と同じものとして、京都の蹴鞠保存会の人々が平安期の衣裳とルールで毎年11月第2日曜日に談山神社(鎌足と大兄が改新クーデターを談合したとされる場所)で蹴鞠を行っているのは、大きな誤解を呼ぶ催しとして少々残念でなりません。
それが、今日まで伝わる蹴鞠ではなく、<サッカー+ホッケー>に近いものであるとわかると、日本サッカー界のW杯挑戦も、イタリア・サッカーがサッカーのことをローマ帝国時代に伝わった球戯の名前(カルチョ)で呼んでいるのと同様、プラスになるような気がしますが……(笑)。
また、「打鞠」は足でも鞠を蹴ったわけで、「而候皮鞋随毬脱落」の記述は、まったく不思議ではないでしょう。
少々不十分な証拠で申し訳ないのですが、「蹴鞠」(平安期に流行した)の歴史を考えると、「打鞠」が「蹴鞠」とは掛け離れたボールゲームであることは明らかで、『平家物語』の「毬打(ぎちゃう)」の記述を見ますと、大化期の<ホッケー+サッカー>のような球戯は、サムライや法師や庶民の間に連綿と伝わり、蹴鞠は貴族に限られて発展した、と思われます。
さらに「ぎっちょう」は、鎌倉武士の間で、ポロのように馬に乗って毬を打つ団体球戯に発展し(メソポタミアに生まれ、中国へ伝わり、日本に渡った球戯の原型?)、その「ぎっちょう」を江戸時代に八代将軍吉宗が一時期復活し、「ぎっちょう」は「棒で玉を打って運ぶ」庶民や子供の遊びとして発展し、明治時代まで残ったこと……、その「棒」を持つ手が左手であることが多かったlことから、「左ぎっちょ」という言葉が生まれたこと……などが、小生の読んだ本(資料)に書かれていたと記憶しています。
それら日本で流行した集団球戯の全てのルーツが、大化期以前に大陸から伝わった集団球戯の「打鞠」(くゆるまり)にあるとは言うことができても、「打毬」=「蹴鞠」というのは、かなり無理があるように思うのですが、如何でしょう?
尚、蘇我時代からの日本の天皇の歴史を書き起こした橋本治氏の『双調平家物語』には、大化のクーデター前の「打毬」(うちまり)のシーンが、毬を「杖」で打ったり、足(靴)で蹴ったりして「門」まで運び入れる球戯として描かれています。小説家の書いた小説ではありますが、この描写が史実に近いのではないかと、小生は思っています。
「蹴鞠」(けまり)は、当時、まだ存在しなかったのですから……(そのことについては百科事典等にも書かれていて、明らかです)。
「打鞠」は「蹴鞠」ではないにしても、大化期に日本に伝わっていた集団球戯から、平安期の個人技中心の「蹴鞠」が生まれ出る(発展に影響を与える)のに、まったく無関係か、というと、そうとも思われません。しかし、スポーツの発生学的には、クリケットからベースボールが生まれた、という「嘘」に近いように思われます。
以上 玉木拝 |