私はヘミングウェイの『老人と海』の素晴らしさが、長い間まったく理解できなかった。
一人の老人がカリブ海で小舟を操り、巨大なカジキマクロと格闘し、仕留める。ところが帰港途中に鮫の群れに襲われ、獲物のカジキを奪われる。たったそれだけのストーリー。そのどこが素晴らしいのか、まるで理解できなかった。
が、あるとき、これはひょっとして物凄い作品なのだ、と思うようになった。
それは私がスポーツライターとしての仕事を始めて15年余り、40歳近くになって改めて「スポーツとは何か?」という疑問を抱き、スポーツの勉強をやり直し始めた頃のことだった。
そのとき出逢ったのがルネサンス期の詩人ペトラルカ(1304〜1374)で、彼は「近代登山の父」と呼ばれていた。
彼以前の登山とは、峠を越えて山の向こうの目的地の町や村へ行くために山に登るか、あるいは神を求めて祈るため(または悪霊を退散させるため)に山へ登るしかなかった。
が、ペトラルカは1336年4月26日、弟のジェラルドを引き連れ、アビニヨン近郊のヴァントゥ山に登った。それは山頂からの見事な眺望を味わうためだった。
これこそ近代登山(近代スポーツ)の本質だと気づけば、たとえばルー・ウォーレス(1827〜1905)の小説『ベン・ハー』に描かれた古代ローマ帝国時代の戦車競走は、断じて近代スポーツと言えないことがわかる。
チャールトン・ヘストンの主演映画のほうが有名になった作品だが、子供の頃からの幼馴染みが、一方はローマの将軍となる。もう一方は彼によって皇帝暗殺の濡れ衣を着せられたユダヤ人として奴隷の身分に身を落とし、二人は互いに戦車競走に臨むことになる。
4頭立ての馬を全力疾走させ、戦車の車体をぶつけ合っての凄まじい闘いに勝ったのはユダヤ人のベン・ハーで、彼は自分と自分の家族を悲劇に導いた将軍への仕返しを果たす。そして敗れた将軍は名誉も地位も失ったうえ、莫大な賭けにも負けて全財産も失う。
この『ベン・ハー』の発表されたのと同じ19世紀末、ロシアの文豪レフ・トルストイは『アンナ・カレーニナ』のなかに、アイス・スケートや体操(平行棒)、競馬やテニス、狩猟やクロッケーなど、多くのスポーツを登場させた。トルストイ自身ダンベルで身体を鍛え、乗馬や自転車乗りを好み、水泳やテニスを楽しみ、人間は本来運動や労働をする生き物であると主張し、身体と精神を切り離すことはできないと考えていたという(坂上康博他『スポーツの世界史』一色出版より)。
そんな彼が自作のなかでスポーツを取りあげたのは、当然とも言える。が、彼が描いたスポーツは、あまりにも見事に作品のなかに消化され、体操や平行棒で身体を鍛える農民は、いかにも彼の実直な生き方を示し、テニスや競馬の会場は上流階級の華やかな雰囲気を醸しだす。そしてアンナの初恋の相手と言える男は、(男らしく)競馬の障害レースに挑み、飛越に失敗して落馬。彼のケガを心配するアンナの態度から、夫は不倫を確信するのだ。
言わばスポーツが「人生の象徴」として描かれているという意味において、『アンナ・カレーニナ』も『ベン・ハー』も同じなのだ。
ところが『老人と海』は違う。
巨大なカジキマグロと大格闘する老人は、綱の先の餌に食らいついたカジキに引き倒され、顔面から血を流す。彼が握り締める綱は背中の筋肉に食い込み血が滲む。その痛みに耐え、両腕を痺らせながらも老人は闘う。
「ヤツがどんなに立派で素晴らしくても殺す。人間がどんなことをできるか、ヤツにわからせてやる」
二昼夜続いた格闘に勝利した老人は、カジキを銛で刺し殺し、小舟に結わいつける。が、鮫の群れに襲われ、再び大格闘。カジキは骨を残すだけで全部食われてしい、疲れ切って帰港した老人は、ひとり呟く。「負けてしまえば気楽なもの。こんなに気楽だとは思わなかった。しかし、さて何に負けたのか?」
ベッドに入った老人は、眠りにつきライオン(強さの象徴?)の夢を見る。
カジキは何を意味するのか?
……(以下は、春陽堂書店『Web 新小説』でお読みください) |