掲載日2003-12-04 |
この原稿は、『月刊福祉』という雑誌に掲載されたものです。1999年8月に書いたものらしいです(仕事というのは、記憶からも消え去っていくもののようで・・・)。 |
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ああ、肩が凝る。 |
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原稿の執筆を依頼されたり、テレビ番組のゲスト出演を要請されるとき、「肩書きは?」と聞かれるのが、いちばん困る。
スポーツライター、スポーツ評論家、プロ野球評論家、スポーツ・ジャーナリスト、音楽ライター、音楽評論家、作家、小説家、放送作家、コラムニスト、政治経済評論家、ジャーナリスト、雑文屋、売文屋、物書き・・・。これまでに使ったことのある肩書きはいろいろあるが、どれもしっくりこない。
そもそも、「肩書き」という言い方が気にくわない。どうして、「肩」なのか?
そういえば、日本語には、「肩」にまつわる言葉がやたらと多い。「肩身が狭い」「肩の荷を降ろす」「肩で風を切る」「肩を貸す」「肩を並べる」「肩入れする」等々、日本人は、何かにつけて「肩」を意識する。
野球でボールを遠くまで投げる選手のことを「肩が強い」といったりもする。が、考えてみれば、いったい肩のどこがどうに強いのか、よくわからない。同じ意味のことを、英語では「ストロング・アーム」(強腕)という。それなら、なるほど腕の筋力が強いのだ、とよくわかる。
日本語の「肩」にまつわる言葉は、身体の肩を実際にに示しているのではないのだ。とはいえ、もとはといえば、実際の「肩」を意識したから、「肩」にまつわる言葉が数多く出現した、と考えるべきだろう。
アメリカ人の友人に教えてもらったことだが、英語には「肩こり」という言葉がないらしい。"stiff shoulder"という言い方があるが、ほとんど使われない。だから、「日本語をおぼえる前までは、『肩こり』しなかった」という。日本語で「肩こり」という言葉を覚えてから、肩が凝るようになった、というのだ。
江戸時代以前の絵画などを見ればわかるが、日本人は少々猫背気味で姿勢が悪い。西洋人のように胸を張っていない。だから頻繁に肩こりを起こし、そこから「肩」を意識しすぎるようになり、肩にまつわる多くの言葉を生んだのかもしれない。が、それなら、意識的に、無意味な「肩」にまつわる言葉は使わないようにしてみればどうだろう。
その筆頭が「肩書き」である。人間は「肩書き」などで判断されたり、評価されたりするものではない。「肩書き」などなくても、「中味」だけで十分ではないか――。
しかし、「肩書きは?」と訊かれたときに、そんな主張を繰り返していると、肩が凝る。
だから「何でも結構です。適当につけておいてください」と答えることにしている。
世の中の慣習を変えるのは、じつに難しいものである。 |
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