大都会には地方から出てきた大勢の人々が犇(ひし)めき合う。そこで、見知らぬ者同士がコミュニケーションを始めるためのツールが生まれる。
たとえば喧嘩。
火事と喧嘩は江戸の華。肩が当たった、眼(がん)を飛ばした、と言い合う男達の間に、別の男がマアマアマア……と割って入り、いつの間にか仲良くなる。
あるいは、芝居。
舞台を見て感激した地方出身の見知らぬ者同士が、ふと目と目が合ったのをきっかけに、一緒に縄暖簾をくぐって酒を酌み交わし、今日の団十郎はどうのこうの……と話し合ううちに親交が深まる。
江戸の大相撲は、さらに大きな力を持っていた。
何しろ土俵に立つ力士自身に、地方出身者が圧倒的に多い。初代横綱明石志賀之助は下野(しもつけ)。谷風梶之助は仙台。小野川喜三郎は近江。稲妻雷五郎は水戸。不知火諾右衛門は肥後。横綱よりも強いと言われた大関雷電為右衛門は信濃……。
彼らに同郷出身者が声援を送り、○○が強い、いや△△が一番と、江戸の都で鄙自慢(ひなじまん)が始まる。
さらに参勤交代で江戸住まいをする地方藩の武士や、江戸へ出て成功した地方の豪商たちが、同郷力士の贔屓筋(ひいきすじ)として支援する。
彼らの贈る化粧まわしは競って華美になり、派手な力士絵は買い占められて配られ、それが火事や喧嘩や芝居と並ぶ江戸の華となった。
力士たちは、もとはと言えば戦国大名のお抱えだった。武士の戦闘訓練の一種として盛んになった相撲だが、大名は、巨躯を誇る力自慢の力士たちが見せる妙技を喜んだ。
織田信長などは、全国津々浦々から強い力士を発掘し、年に何度も安土城で上覧相撲を催し、勝った力士を家臣として召し抱えた。
いや、第十一代垂仁天皇の7年、出雲の野見宿禰(のみのすくね)が大和の当麻蹴速(たいまのけはや)を破ったのが起源とされる相撲は、そもそも都に出て活躍する地方出身者のためのイベントとして始まった、と言えるのだろう。
21世紀の現代も、日本の都には世界中から力自慢の力士たちが蝟集(いしゅう)し、鬢付け油(びんつけあぶら)が薫る大銀杏(おおいちょう)を結い、化粧まわしを身につけ、四股を踏み、大地を踏み固め、五穀豊穣を祈り、力を競い、技を競い、そして、美しさを競い合って、裸で舞う(素舞う=すもうをとる)。
強い力士が都に集い、都を一層華やかにする。それが、大相撲の本義と言えるに違いない。 |