寺田寅彦を例にあげるまでもなく、科学者の書く文章はじつにおもしろい。それは、一芸(一専門分野)に秀でた人物が、一芸を軸に話を展開し、その話の内容をわれわれの日常にまで到達させてくれるからである。そして、その一芸についてまったく門外漢である読者は、不可知の辺境から照射された光が、ごく間近にある日常の、それまで見えなかった部分を見事に照らしだしてくれることに驚嘆させられる。
もちろん科学者の書く文章がすべておもしろいというわけではなく、一般書として書店にならべられながら、専門書もどきの難解で退屈な書物もすくなくない。
辺境の光がわれわれの日常にまで到達するためには、ふたつの条件があるように思える。
それは、まず話の軸となる専門分野が、現代科学の最先端の驚きに満ちていること。さらにその辺境最先端の話題と日常一般の話題を無理なくつなぐための文章が、平易でわかりやすいこと。つまり、名文家であること、である。
そのような条件を満たし、昨今高い評価を獲得している科学者文章家として、養老孟司(解剖学)、西垣通(情報工学)、岸田秀(心理学)といった人物の名前を(心理学を科学とみなすことにして)あげることができると思う。が、本書の著者である竹内久美子氏も、動物行動学と遺伝子学を軸に、きわめておもしろい話を書く書き手として、期待を裏切らない四作目を上梓した。
人間も他の動物と同様、単なる遺伝子の乗り物(ヴィークル)にすぎず、人間の行動はすべて利己的な遺伝子の支配にもとづく・・・という辺境最先端の考え方を軸に、これまで、人間を人間たらしめた進化の原動力は(男の)浮気である、というきわめて日常的な世界に到達する持論を展開してきた著者が、ここでは、人間独自の(他の動物は持ちえていない)「数の概念」に着目し、賭博が社会を発展させ、国家を生んだ、という仮説を披露する。
さらに阪神タイガースの敗北の連続(1986〜1991年)をコオロギの闘いの行動から考察し、ルーマニア共産主義政権の崩壊の因を一夫一婦制を堅持した(女房の尻に敷かれた)チャウシェスクの「品性」にもとめ、明治維新での日本の近代化の成功を、伊藤博文をはじめとする明治の元勲たちの好色ぶりと、それをささえた(?)芸者の存在にあった、と説く。
そして、君主制と階級社会と一夫一婦制が、人間(という遺伝子の乗り物)にとっていかに有効なシステムであるか、ということを説き、やはりセルフィッシュ・ジーン(利己的遺伝子)のヴィークル(乗り物)としてきわめて有効なシステムである天皇家を守るために、<皇太子に側室を>と書く。
思わず「お見事!」と声をかけたくなる論理の展開の鮮やかさは、『男と女の進化論』(新潮社)や『そんなバカな!』(文藝春秋)といったこれまでの著作にも感じられたが、本書では話の内容にどことなく胡散臭さが増し、飛躍の度合いの激しさがくわわった結果、おもしろさが倍加し、読みながら目からウロコを落としたり、ウムムッと唸らせられたり、呵呵大笑したり、この部分はそうじゃないんじゃないの、と著者と会話したり、じつに楽しい書物となった。
あるいは、科学者である著者のこのような傾斜に対して、眉をひそめるひとがいるかもしれないが、わたしは、<すこぶるいいかげんなことを書いて日々の糧を得ている元動物学者>などと著者が自己韜晦することなく、これからももっと胡散臭いいいかげんなおもしろいことを堂々と書きつづけてほしいと思う。
本は、おもしろくなければ読まれないのだから、「軸」さえきちんとしていればいいはずである。 |