まったく驚いたことに、オリンピックをスポーツだと思っている人がいる。さらに呆れたことに、オリンピックに政治を介入させてはいけない、などという人までいる。
冗談ではない。オリンピックはスポーツではない。オリンピックは、政治そのものである。
1863年生まれのピエール・ド・クーベルタン男爵は、1871年に幕を閉じた普仏戦争で完膚無きまでの敗北を喫したフランスに育ち、プロシア(ドイツ)に対する報復の空気に包まれるなかで軍事訓練もどきの体育教育を受けて育った。
その教育に疑問を持った彼は、20歳でイギリスに留学。パブリックスクールでスポーツと出会った彼は、戦争(プロシアへの報復)ではなく、スポーツによってフランスに元気な社会を取り戻し、スポーツを通じて世界平和を築こうと考え、教育者として古代ギリシアのオリンポスの祭典(オリンピック)の復活運動を開始する。
これだけでもオリンピックは十分に政治である。世界平和という理念がどれだけ素晴らしくても、それもまた政治である限り、国際政治の荒波に巻き込まれることは免れない。
クーベルタンは1896年の第1回大会をパリで開催しようとしたが、オリンピックという名称を用いる大会なら我が国で行われるべきと主張したギリシアが、富豪の資金力をバックに開催地をアテネに奪い取る。
さらに古代ギリシアのポリス連合がペルシアを打ち破った闘い(マラトンの闘い)を記念した競技を「マラソン」と名付けて取り入れる(だから現在でもイラン=ペルシアの末裔では「マラソン」と名付けられた競技を忌み嫌って無視する人も少なくない)。
第3回大会はシカゴでの開催が決まっていたが、ルイジアナ州獲得百周年事業の一環として、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが、直前になってセントルイスに変更した。
最もよく知られている政治利用はヒトラー率いるナチス第三帝国の国威発揚大会となった1936年のベルリン大会だが、その大会から開始された聖火リレーでギリシアからベルリンまで運ばれた聖火の通った道を、3年後にはナチス機甲師団の戦車部隊が逆送して第2次世界大戦となった。
1964年の東京大会でも、聖火リレーは政治そのものだった。アテネ―ベイルート―テヘラン―ラホール(パキスタン)と運ばれた聖火は、ニューデリー―ラングーン(ヤンゴン)―バンコク―クアラルンプール―マニラ―ホンコン―台北を経て沖縄に入ったが、それは旧大日本帝国の占領地に対する「お詫び行脚」であり平和憲法で生まれ変わった新生日本のプロパガンダにほかならなかった。
アメリカ占領下の沖縄では戦後初めて君が代が演奏されて聖火が迎えられ、日の丸が打ち振られるなかで日本の潜在主権が主張され、本土へ聖火を運ぶのに国産初の旅客機YS―11が使われたのは、日本の航空機産業の復活を望まないアメリカに対するアピールとなった。
そして最終走者に1945年8月6日原爆投下1時間半後の広島県で生まれた青年を起用したのは、国際社会に対して、日本は加害者であるだけでなく被害者でもあるという政治的メッセージを発したものだった。
それに対して当時国交がなく東京五輪にも参加しなかった中華人民共和国は、大会期間中に初の核実験を行い、世界に衝撃を与えた。
76年のモントリオール大会では、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)に反対するアフリカ諸国がボイコット。続く80年のモスクワ大会はソ連(当時)のアフガン侵攻に反対して西側諸国がボイコット。84年のロサンゼルス大会は東側諸国が報復……。
最近のソルトレイク(冬季)、シドニー、長野(冬季)の3大会では、古代オリンピックの「エケケイリア(休戦協定)」を見習ったオリンピック期間中の休戦が実現したが、アテネ大会ではアメリカの仕掛けたイラク戦争のため「オリンピック休戦」など話題にもならなかった。
そして今年の北京である。10億人を超す巨大マーケットを手に入れたいアメリカは中国での開催を支持し、中国との経済交流に出遅れたヨーロッパは人権をタテに米中関係に楔を打ち込もうとする。スポーツによる世界平和というオリンピックの「政治理念」を実現しようとする意志など存在しないIOC(国際オリンピック委員会)は、無事開催されてスポンサーやテレビ局からの巨額の資金で潤うことだけを願う。
俺は政治が大嫌いである。だからオリンピックも大嫌いだ。もちろんスポーツは大好きである。妙な理屈をつけず純粋にスポーツを行えば、世界平和につながるはずなのに…。 |